an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

天からの声(1)

マタイ3:16-17

16 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 

17 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 

マタイ17:1-6

1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 

2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。 

3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。 

4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。 

5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。 

6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。 

ヨハネ12:27-29

27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。 

28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。 

29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。 

 御子イエス・キリストの公生涯の期間において、少なくても三度、天からの声があったことが福音書に記録されている。もしかするとそれ以外に機会があったのかもしれないが、やはり聖霊によって書き記されていることを基に考察したいと思う。

 一度目は、御子がヨルダン川で浸礼を受けた直後のことで、それは「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という天からの声であった。「私の愛する子」という表現によって、その天からの声が、「父なる神の声」であったことが理解できる。

 二度目は所謂『山上の変容』と呼ばれるエピソードにおけるもので、御子が三人の弟子たち(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れて高い山に登った時、輝く雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」という声があったことが記録されている。

 使徒ペテロは三十年以上経て、晩年にこのエピソードを思い出しているぐらいだから、それは本当に強烈な体験だったことだろう。

Ⅱペテロ1:16-18

16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。

17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 

18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。

 ペテロは「天から出た声」と表現しているので、マタイが言うところの「輝く雲の中から声」は、「上から聞こえてきた声」と感じたのだろう。

 興味深い点は、マタイは記録しているのになぜかペテロ自身は省略している「これに聞け」という命令である。というのも、これらのエピソードが証明しているように、天なる神は望むなら他に何度でも、様々な状況で天からその御声を聞かせ続けることもできたはずだからである。

 そもそもご自身の真理を啓示するのに、御使いも預言者も使うことなく、また御子を地上の遣わすこともなく、超自然的方法でダイレクトに天から語ることもできたはずである。

 しかし父なる神は、御子に肉体を与え、罪人の間に遣わし、御子を通してこの世に語り、御子を通してご自身の栄光を顕わし、御子の死を通して信じる者を救い方法を選ばれたのである。

へブル1:1-3

1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、 

2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。 

(2)へ続く

後のものを忘れ、前のものに向かって

ピリピ3:12-14

12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、

14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

「ただ、この一事に励んでいます。」

「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている」と告白した詩篇記者のように(詩篇27:4)、御子イエスの足元に座って御言葉を聞くことだけを選んだマリアのように(ルカ10:39、42)、使徒パウロは成熟した一人の信仰者として「一つのこと」に専念していた。

後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ

forgetting those things which are behind,
reaching forth unto those things which are before

 ここでは動詞に再帰的なニュアンスが感じられ、使徒パウロが目標に到達しようとしている自分のために「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」走っているイメージである。つまり使徒パウロ自身がコリント教会への書簡の中で書いたように、それは漠然とした「目標のはっきりしないような走り方」ではなく、目標のために「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」という明確な意志の働きがある。

Ⅰコリント9:24-26

24 あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。

25 しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。

26 そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。

 それでは使徒パウロが「忘れる」と決めた「後ろにあるもの」とは何だったのだろうか。それは、彼自身が「肉の頼み」と呼んでいたものであり、自分の出生や宗教的正統性、民族的優越感、自分自身の正義であった。

ピリピ3:4-9

4 もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。

5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、

6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。

7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。

8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、

9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

 彼は自分にとって益であり、誇りであったそれらのことに背を向け、自分の前にある目標、つまり主イエス・キリストの故に、それらを「損」「糞土」と見做したのである。

 使徒パウロが、それらのことを「消滅した」「もう存在しない」とは言っていないことは興味深い。それは「忘れる」という動詞を使っていることにも暗示されている。「誇ろうと思えば確かに誇る要素が存在するが、敢えてそれを『損』『糞土』と見做しているのだ」という強烈な思いが書きしるされている。

 このキリストに対する強烈な思いは、使徒自身が感じていたジレンマにも表われている。

ピリピ1:20-23

20 そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。

21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。

22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。

23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。

 彼は「後ろにあるものを取りに戻るか、否か」とか「今の道とは違う道に行こうかどうか」と悩んではいなかった。言うなれば「今のペースでもう少し走るか、それとも最終スパートをするか」という選択を考えていたのである。

 私には使徒パウロのように自分の後ろに誇れるようなものが何もないにも関わらず、時に躊躇し、キョロキョロと注意散漫である現実を本当に恥ずかしく思う。ただそれでも、私の内から何とも言いようのない渇きというか、慕い願う思いが湧き上がってくるのは、御子が聖霊によって私の心を捕えてくださり、決して見離さないと約束してくださっているからだと信じる。

ピリピ3:12(新改訳)

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。 

ピリピ1:6

そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。

人知をはるかに越えたキリストの愛を知って

エペソ3:14-21

14 こういうわけで、わたしはひざをかがめて、

15 天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。

16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、

17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、

18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、

19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。

20 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、

21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

 御子イエス・キリストの十字架の死は、私たち人類に対する神の無限の愛の顕れである。

ローマ5:8(新改訳)

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 まさに「人知をはるかに超えたキリストの愛(直訳:知識を超える愛)」の具体的な顕れである。

 しかし何と多くの場合に、私たちは自分たちの「知識」や「知恵」によって、その無限の愛に対して自分たちが勝手に描く境界線で囲い、「身動きとれないように釘で打ち付け」、人間の罪の中に閉じ込めようとしているだろうか。

 御子の愛の声が、罪びとの罵りや嘲り、呪いの声によって、聴き取れなくなることを許していないだろうか。

 キリストの愛が私たちの知識の限界を超えるのではなく、私たちの疑いが、諦めが、傲慢が、より優れている思う人間の知恵が、その境界線を越えて増幅し、私たちの心や兄弟姉妹の交わり、そして社会を蝕んでいく。

 「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さる」神の力は、「私たちが求め、また思うところ」によってすっかり制限され、束縛されていないだろうか。

 「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み」。私たちの不信仰によって、キリストが私たちの心のうちで十字架に再び釘打たれ、身動き取れない状態になっていないだろうか。

キリストを知ることに関する信仰者の自覚

Ⅱコリント5:13-17

13 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。

14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

 16節は、我々がどのようにキリストを知るべきかを啓示している、非常に重要な聖句である。便宜的に三つに分けて、和訳ではすべて「知る」と訳されているそれぞれの動詞の時制を比較してみると、そのニュアンスがわかりやすいのではないだろうか。

A.わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい

【οἴδαμεν oidamen】現在完了

 

B.かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、

【ἐγνώκαμεν egnōkamen】現在完了

 

C.今はもうそのような知り方をすまい。

【γινώσκομεν ginōskomen】現在形

 AとBにある現在完了形は、事柄や動作が現時点では終了しており、なおかつその結果が現在にも及んでいることを示す。過去とも関わりを持つが、現在のことを指しているので、過去の知識は現在も保持しているが、今現在はその知っていることに頼らず、聖霊によってキリストを知ろうという意思を示している。

 ここには「二つの知る行為」が目の前にあり、その二つの知る行為の「明確な変換に対する信仰者の自覚」がある。それは14節の「わたしたちはこう考えている」と、17節の「見よ【ἰδοὺ idou】」がそれを暗示している。

 そしてこの「明確な変換に対する信仰者の自覚」は、「キリストの死と私たちの死」そして「キリストの復活と私たちの新しい命」によるものである。

ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

 このように考察してみると、16節の和訳は新共同訳が私にはより的確であるように思える。

(新共同訳)

それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。

肉に従ってキリストを知っていたとしても、

今はもうそのように知ろうとはしません。

 ちなみに口語訳などで「肉」と和訳されている【σάρκα sarka】を、新改訳は「人間的な標準」、塚本訳では「人間的」と和訳している。

 御子自身が「聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と宣言している以上、私は日々聖書を読み、学ぶために、上述の「明確な変換に対する信仰者の自覚」が、聖霊の光と導きを求める祈りの土台として、決定的に重要で不可欠なものであると思う。

 

「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊によって

イザヤ63:15-16

15 どうか、天から見おろし、その聖なる栄光あるすみかからごらんください。あなたの熱心と、大能とはどこにありますか。あなたのせつなる同情とあわれみとはおさえられて、わたしにあらわれません。

16 たといアブラハムがわれわれを知らず、イスラエルがわれわれを認めなくても、あなたはわれわれの父です。主よ、あなたはわれわれの父、いにしえからあなたの名はわれわれのあがない主です。
(フリーソフトe-Swordの口語訳では、「あながい主」と入力ミスがあるので訂正が必要)

「あなたの熱心と、大能とはどこにありますか。あなたのせつなる同情とあわれみとはおさえられて、わたしにあらわれません。」

「あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押えておられるのですか。 」(新改訳)


 この嘆きの声を主なる神にあげたのが預言者イザヤであったのは、非常に心を打つ。イザヤは若い時から預言者として召命を受け、50年以上の長い歳月にわたって、主の言葉を受け、民に忠実に伝えた、多くの預言者の中でも代表的な存在である。

 その働きの期間に、4人の王(ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ)が王位に就くのを見、また主なる神の警告通りにイスラエル北王国が滅びるという激変の時代にあって、神のしもべとして生き抜いた預言者であった。

 新約聖書において65回もイザヤが書き残した書から引用されていることは、彼が如何に神の御声に忠実であったかを示している。特に印象深いには、預言者が神殿の中で神の栄光の幻を見、セラフィムの賛美を聴いたことである。

イザヤ6:1-4

1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、

2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、

3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」

4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

 イザヤが神の幻を見た時に受けた御言葉を引用し、福音書記者ヨハネはその幻が御子の栄光を顕現であったと告げている。

ヨハネ12:39-41

39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。

40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」

41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

 つまりイザヤが神殿の中で見た主の栄光の幻は、受肉前の御子の栄光だったのである。
 イザヤはメシアの誕生や地上宣教を始めることになる場所さえ、預言として神から受けた。さらに、『第五の福音書』と呼ばれる程、実に克明にキリストの苦難と復活を描写したあの驚異的な53章の預言を書き記した。御子が受肉し、地上に遣わされる約700年前の預言である。

 このように、その長い働きの中で、神からの驚異的なメッセージを受けて書き記していたイザヤが、ここでは「あなたの熱心と、大能とはどこにありますか。あなたのせつなる同情とあわれみとはおさえられて、わたしにあらわれません」と嘆いているのである。
 しかしそれでもこのイザヤの祈りは、私たちに二つの決して動かない点を示している。それはどのような状況であっても「主なる神は信じる者の父であること」、そして「主は永遠に信じる者の贖い主であること」である。

主よ、あなたはわれわれの父、

いにしえからあなたの名はわれわれのあがない主です。

 この不動の点は、御子イエス・キリストの恵みによって、信じる全ての者に対してより確かなものとなった。

ヨハネ1:12-13(新改訳)

12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 

13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 

ローマ8:14-16

14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 

15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。

16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。  

ガラテヤ4:4-7

4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。 

5 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。 

6 このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。 

7 したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。 

エペソ1:3-5

3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、

4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、 

5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。 

 私たちを神の子として贖ってくださった霊は、十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫した後でさえも、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と祈り、父なる神に全てを委ね切った御子の霊である。

ルカ23:46

イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

  だからこそ、私たちが今現在、身動きとれない厳しい試練のなかにいて、見捨てられた孤独に放り込まれ、神の声も聞こえず、神の御手も感じられなかったとしても、それでもなお、「父よ」と神の向かって叫ぶことができ、その叫びの祈りをあげる私たちの魂のうちには、十字架に架けられた御子の霊が確かにおられるのである。

真のユダヤ人

ローマ2:28-29(新改訳)

28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。

29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

ピリピ3:2c-3

2c 肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。

3 神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。

外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく

かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり

 モーセの律法に従って生後八日で割礼を受け、ベンヤミン族出身の生粋のユダヤ人であった使徒パウロが、このように「真のユダヤ人」の定義をしていることで、ユダヤ人の選民意識やメシアニック・ジューの驕り、アシュケナジー系ユダヤ人の起源に関する議論やアンチセミティズム、日ユ同祖論すらも全て十字架に収斂し、意味を失う。

 

神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしない

人からではなく、神から来る」誉れを待ち望む

 これこそ「真のユダヤ人」の本質であり、人間の驕りによって淀み、混乱した世界に聖霊が残す確かなしるしである。

神の力としての十字架の言

Ⅰコリント1:18-25(新改訳)

18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」 

20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。 

21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。 

23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。 

 十字架に架けられた御子イエス・キリストが、神の愛と義の顕れ(ローマ5:5-8;ローマ3:21-26)であることは何度も記事にしたことがあるが、十字架に架けられたキリストはそれだけではない。

十字架のことばは、…神の力です。

私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。…キリストは神の力、神の知恵なのです。

 一体、全ての人から見捨てられた一人の死刑囚に、どんな力を見出せるだろうか。しかしその全く無力で、目を背けなければいられない程おぞましいところに全知全能の創造主である神の力と知恵が顕わされている。

 それはシンボルとしての十字架でも、キリストの磔刑像でも、惨たらしい映像でもない。神の力であるのは、「十字架のことば」つまり「御子イエス・キリストによる贖罪のわざのメッセージ」であり、死から復活し、「生けるキリストその方自身」が神の力なのである。

 冒頭に引用して聖句を書いた使徒パウロは、他の書簡の中で「神の永遠の力は被造物によって知られている」と書き記している。

ローマ1:20

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

 しかし「十字架のことば」は、そのように間接的に神の力を表しているものではなく、神の力そのものである。だからこそ、罪と闇と死が支配している心に新しい命を与え、虚無の中の閉じ込められている魂を救うことができるのである。

 確かに、この神の力は明確な目的をもっている。それは「信じる者全ての救い」である。

ローマ1:16

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。 

 それは自然の不思議を見て感嘆したり、宇宙の遠大さに畏敬の念をもったり、聖書に興味をもったりすることの先にある、生ける神を個人的に知ることによる永遠のいのちである。