キリストを知ることに関する信仰者の自覚
Ⅱコリント5:13-17
13 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。
14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。
17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
16節は、我々がどのようにキリストを知るべきかを啓示している、非常に重要な聖句である。便宜的に三つに分けて、和訳ではすべて「知る」と訳されているそれぞれの動詞の時制を比較してみると、そのニュアンスがわかりやすいのではないだろうか。
A.わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい
【οἴδαμεν oidamen】現在完了
B.かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、
【ἐγνώκαμεν egnōkamen】現在完了
C.今はもうそのような知り方をすまい。
【γινώσκομεν ginōskomen】現在形
AとBにある現在完了形は、事柄や動作が現時点では終了しており、なおかつその結果が現在にも及んでいることを示す。過去とも関わりを持つが、現在のことを指しているので、過去の知識は現在も保持しているが、今現在はその知っていることに頼らず、聖霊によってキリストを知ろうという意思を示している。
ここには「二つの知る行為」が目の前にあり、その二つの知る行為の「明確な変換に対する信仰者の自覚」がある。それは14節の「わたしたちはこう考えている」と、17節の「見よ【ἰδοὺ idou】」がそれを暗示している。
そしてこの「明確な変換に対する信仰者の自覚」は、「キリストの死と私たちの死」そして「キリストの復活と私たちの新しい命」によるものである。
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
このように考察してみると、16節の和訳は新共同訳が私にはより的確であるように思える。
(新共同訳)
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。
肉に従ってキリストを知っていたとしても、
今はもうそのように知ろうとはしません。
ちなみに口語訳などで「肉」と和訳されている【σάρκα sarka】を、新改訳は「人間的な標準」、塚本訳では「人間的」と和訳している。
御子自身が「聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と宣言している以上、私は日々聖書を読み、学ぶために、上述の「明確な変換に対する信仰者の自覚」が、聖霊の光と導きを求める祈りの土台として、決定的に重要で不可欠なものであると思う。