an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖書の霊感:「手短に書いた」

へブル13:22

兄弟たちよ。どうかわたしの勧めの言葉を受けいれてほしい。わたしは、ただ手みじかに書いたのだから。

 「手短に書いた」

 この表現は、「本当はもっと多くのことをより詳しく書きたかったのだが、読み手の霊的状況がそれを許さなかったので、重要な事を簡潔に書くことを敢えて選んだ」という筆者の意思を示している。そのことは、以下の聖句からさらによく伝わってくる。

へブル5:11

このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。

 違う観点から見れば、「少なくとも読み手の霊的状況に合わせて、理解できる方法で、必要なことを十分に書いた」という自覚も暗示している。それは『ヨハネによる福音書』が書かれた目的に関する言及とも共通する。

ヨハネ20:30-31

30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。

31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

 『へブルびとへの手紙』の筆者も福音書記者ヨハネも、自分が書いた書簡を読むだろう相手を励ます目的で、その目的に必要十分な内容を書くように聖霊に導かれたのであって、別の目的はなかったはずである。例えば、彼らは他の書簡を書いた使徒同様、自分たちが書いたものを、新約聖書全27巻を構成する一書として書いたわけではなかった。つまり彼らの福音書や書簡を書き始めるにあたって、聖霊に「私は今後、27巻からなる『新約聖書』を全人類の為に備えるから、心して私が語ることを書きなさい」とは命令を受けなかった、ということである。

 ということは、福音書記者や使徒たち各自に霊感を与え、書簡や福音書を書かせた聖霊は、それらの書簡を受け取り、教会の交わりの中で読み、他の教会も読めるように共有した兄弟姉妹の心にも働きかけ、導いていたということである。

 使徒時代の教会の兄弟姉妹の中には、使徒パウロの権威を認めず、彼を卑下する者たちがいたことが記されている。

Ⅱコリント10:1-2;10-12

1 さて、「あなたがたの間にいて面と向かってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる」このパウロが、キリストの優しさ、寛大さをもって、あなたがたに勧める。

2 わたしたちを肉に従って歩いているかのように思っている人々に対しては、わたしは勇敢に行動するつもりであるが、あなたがたの所では、どうか、そのような思いきったことをしないですむようでありたい。 

10 人は言う、「彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」。

11 そういう人は心得ているがよい。わたしたちは、離れていて書きおくる手紙の言葉どおりに、一緒にいる時でも同じようにふるまうのである。 

12 わたしたちは、自己推薦をするような人々と自分を同列においたり比較したりはしない。彼らは仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである。 

 使徒ヨハネもその手紙の中で、健全な教えを説いていた使徒たちを受け入れない者が教会の中にいて、福音宣教の働きを妨害していたことが記録されている。

Ⅲヨハネ9-10

9 わたしは少しばかり教会に書きおくっておいたが、みんなのかしらになりたがっているデオテレペスが、わたしたちを受けいれてくれない。 

10 だから、わたしがそちらへ行った時、彼のしわざを指摘しようと思う。彼は口ぎたなくわたしたちをののしり、そればかりか、兄弟たちを受けいれようともせず、受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出している。

 当然、使徒たちの権威を認めていなかった者たちは、使徒らが教会に書き送った書簡などの権威も認めていなかっただろう。しかしそのような妨害にもかかわらず、彼らの書簡は教会の中で読まれ、徐々に書き写され、各地の教会同士で交換され、「聖霊の霊感の受けた言葉」として人々の間で大切に保管されていたのである。それは書簡を受け取り、それを読んでいた側に、霊感を受けて書いた書き手と同じ聖霊が働き、その書簡の内容が真理であり、それを他の教会と共有すべきものであることを認識させていたからである。

 これらのことは、聖霊を通して働く神の主権において、聖書はその一書一書におけるそれぞれの目的に対して必要十分であり、また各書を満遍なく読むことによって、全人類に対する神の目的に対して欠けるものはない、有効な賜物であることを示している。

 そして私たちがその聖書を読むとき、聖霊が働き、聖書の中の一つ一つの教えを統合的に理解できるように導いて下さることも示している。

Ⅱテモテ3:14-17

14 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、 

15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。

16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 

17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。 

 

エルサレム第三神殿建設に関する不条理

  おそらくそれほど遠くない未来に関する一つの想定をしてみよう。一人の強烈なカリスマをもった政治家の超自然的な手腕によって、現在では不可能だとしか思えないエルサレムの第三神殿建造が実現する時期に、あなたと私が御子イエスの十字架の贖いを信じ、救いを受けたとしよう。

 私たちは14万4千人のイスラエル人宣教者たちや、エルサレムの二人の証人たちの証しを聞いて、奮い立ち、彼らと同じように罪の赦しと魂の救いは御子の尊き犠牲の死と復活によってのみ与えられ、再建された神殿におけるレビ族祭司たちによる動物のいけにえは、何の役にも立たないものだ、と証しするだろう。

 しかしその私たちの証しは、ステパノの証しに対してそうであったように、神殿祭儀の復活がモーセの律法に守ることであると信じているイスラエル人たちの激しい怒りを買い、またいずれその神殿において自分が神であると宣言することを計画している反キリストの憎悪と殺意の対象となるだろう。

 そして反キリストはその独裁者としての権力を用い、全世界に対してこう宣言するだろう。「このキリスト者たちは、神がモーセを通して与えてくださった神聖なる律法に背き、世界平和の実現に反対し、兄弟愛を憎む反逆者である」と。

 御子イエスが終わりの時に関して預言していたことが、その時、完全に成就するである。

マタイ24:9

そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。 

 そして反キリストはあなたと私を、その他のキリストの証人と同様、逮捕し、おそらく拷問によって棄教を迫り、それでも御子とその十字架にのみ栄光を帰そうとする信仰者たちを殉教に追い込むだろう。

使徒6:11-14

11 そこで、彼らは人々をそそのかして、「わたしたちは、彼がモーセと神とを汚す言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。 

12 その上、民衆や長老たちや律法学者たちを煽動し、彼を襲って捕えさせ、議会にひっぱってこさせた。

13 それから、偽りの証人たちを立てて言わせた、「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。

14 『あのナザレ人イエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」。 

使徒7:48-58a

48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、 

49 『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。

50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。

51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。

52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。

53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。 

54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。 

55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。

56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。

57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、 

58a 彼を市外に引き出して、石で打った。

 私たちに対して激しく怒る人々の顔をみながら、私たちは考えるだろう。「イスラエル旅行に参加し、第三神殿建設のために熱心に執り成しの祈りをし、献金まで捧げていたあの福音派クリスチャンたちは、一体何を期待していたのだろうか」と。

 たとえディスぺンセ―ション主義的立場にいたとしても、一人の信仰者であるならば、「教会は大患難期前に携挙されるのだから、大患難期に信仰をもつことになる人々がどのような苦難に遭遇しようともあまり興味がない」と考えることはできないはずである。なぜなら終末論的見解の違いを超えて、現在恵みの下に生きている信仰者も、大患難期に御子イエスを信じて、絶対に避けては通れない迫害と殉教によって信仰を全うする人々も、共に主の御前に立つことになるからである。

 その時の贖われた人々の口からでる賛美は、神の子羊としてその尊き命を捧げてくださった唯一の救い主、御子イエスを褒め称えるだけだろう。

黙示録5:7-10

7 小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。 

8 巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。 

9 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、

10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。 

 

 

 

十字架の上の「なぜ」

マタイ27:46

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。  

 全知の神の御子イエスが、十字架の上で「なぜ」と父なる神に問いかけている。

 

 新約聖書において、御子は何度も弟子たちや宗教権威者たちに「なぜ」と問いかけていた。しかしそれらの問いかけは、彼が何か理解できないことや知らないことがあったからではなく、いずれも問われた者に悔い改めを促す意味合いを持っていた。

 

 息子とはぐれてしまい慌てふためく両親に対して「どうしてわたしをお捜しになったのですか」と問いかけ、溺れかけた使徒ペテロには「なぜ疑うのか」と問い、パリサイびとらには「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか」「あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか」 、弟子たちには「なぜ、眠っているのか」「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか」、空の墓の前で泣いていたマグダラのマリヤには「なぜ泣いているのですか」、教会を迫害していたサウロには「なぜわたしを迫害するのか」と問いかけた。

 

 しかし父なる神に対しては、一度たりとも「なぜ」と問いかけたことはなかった。御子には、知識の上でも、父なる神との交わりという意味でも、そのような問いをする理由がなかった。父なる神のご自身に対する御心を完全に知っていただけでなく、その御心に完全に同意し、また恭順、つまり自ら喜び、畏敬の念によって従っていたからである。

 

 だから十字架の上から父なる神に投げかけられた「なぜ」は、御子がその時に背負っていた全人類の罪と律法の呪いを表しているのである。

Ⅱコリント5:21

神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。 

ガラテヤ3:13

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

 その「律法の呪い」とは、申命記28章に啓示されているものである。

28 また主はあなたを撃って気を狂わせ、目を見えなくし、心を混乱させられるであろう。

34 こうしてあなたは目に見る事柄によって、気が狂うにいたるであろう。

65 その国々の民のうちであなたは安きを得ず、また足の裏を休める所も得られないであろう。主はその所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を打ちしおれさせられるであろう。

66 あなたの命は細い糸にかかっているようになり、夜昼恐れおののいて、その命もおぼつかなく思うであろう。

 

 驕り高ぶり、神のように善悪を知る者になろうとしたアダムの罪、そして報いとしての死と呪いは、へりくだり、十字架の上で「なぜ」と叫んだ神の子イエスによって完全にあがなわれたのである。

 

 私たちがいかなる不条理や混乱の中にあったとしても、御子の尊き犠牲によって、幼子のように自分たちの魂を委ね、安らぐことがことができるこの恵みに、心から感謝し、御子の栄光を賛美しよう。

 

いのちの君を殺してしまった。

使徒3:14-15

14 あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、 

15 いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。 

Ⅰペテロ2:22-24

22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 

 「いのちの君を殺してしまった。」 

 いのちの君、いのちの源泉、いのちそのものである御子だけが、罪も、憎しみも、殺意も、死さえもすべて背負うことができた。

 人間のあらゆる絶望も孤独も虚無も、いのちである御子だけがその身に負われた。

 

 復活した御子のいのちの光で、暗闇にいる私たちをさらに照らしてください。

 

 そうすれば私たちは生きるでしょう。

私に従いなさい。

ヨハネ21:15-22(新改訳)

15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」 

16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」 

19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 

20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。 

21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」 

22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」 

  御子は、三度の問いかけを通して、弟子ペテロの心がご自身に対する愛に満たされていると確認したから、彼に「私に従いなさい」と命じたのだろうか。

 そもそも御子が一人の罪人(ペテロは御子のことを三回「知らない」と証言した)の心のうちにどれだけの愛があれば、その人に「私に従いなさい」と命じようと思うのだろうか。

 私たちにどれだけの愛があれば、御子に従うことができるのだろうか。どれだけ聖書の知識を蓄積すれば、どれだけの賜物を受ければ、その一歩を踏み出せるのだろうか。

マタイ16:24-25

24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 

  同様に、私たちはどれだけ自分を捨て、どれだけ自分の十字架を負えば、御子に従うことができるのだろうか。

 これらの問いかけを心に、私たちが祈りの中で御子の十字架の前に静まる時、「私に従いなさい」という御子の言葉自身が、如何にいのちと力を持つものか、理屈ではなく、聖霊によって心に示されるだろう。

信仰の創始者であり、完成者である御子イエス

へブル12:1-2(新改訳)

1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 

 2節aにおいて、他の和訳の代表的なものは、以下のように訳出している。

(文語)信仰の導師また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。

(口語)信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。

 「創始者」「導師」「導き手」と和訳されている原語【αρχηγον archēgon】は、新約聖書の中で他に以下の三箇所で使われている。

使徒3:15

いのちのを殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。 

使徒5:31

そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。

へブル2:10

なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救のを、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。 

 同じ単語が旧約聖書のLXX訳では三回使われている。

民数13:2

「人をつかわして、わたしがイスラエルの人々に与えるカナンの地を探らせなさい。すなわち、その父祖の部族ごとに、すべて彼らのうちのつかさたる者ひとりずつをつかわしなさい」。 

民数14:4

彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。  

エレミヤ3:4

今あなたは、わたしを呼んで言ったではないか、『わが父よ、あなたはわたしの若い時のです。 

 エレミヤ3:4において、「」(新共同訳)「連れ合い」(新改訳)「交友(とも)」(文語)などと訳出されている。

 これらの様々な訳のバリエーションを考慮しつつ、文脈が「私たちの前に置かれている競走」(12:1)という霊的な道程について言及していること、また【αρχηγον archēgon】と【τελειωτην teleiōtēn】が一つの冠詞をもつことから、「創始者であり、完成者である」や「導き手であり、またその完成者である」という訳は、信仰生活の出発点から到達点まで、「信仰者の信仰を創り出し、導き、完成をもたらす」というニュアンスが伝わるものではないだろうか。ちなみにイタリア語のNRVは「fissando lo sguardo su Gesù, colui che crea la fede e la rende perfetta.」(信仰を創造し、完全なものとする方)と訳出している。

 まさに主なる神がご自身の計画によって選び、奴隷生活から贖い出したイスラエルの民に対して、最後まで変わらぬ真実の愛を誓ったように、御子イエスは聖霊の働きを通して、救いを求める魂の内に信仰を賜物として与え、それを導き、完成に至らす方である。

イザヤ46:3-4

3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。

4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。 

  使徒パウロの言葉も、上述の霊的道程における神の働きについて啓示している。

ピリピ1:6(新改訳)

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。 

 

アブラハムの信仰

ローマ4:16-25

16 このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、 

17 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。

18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。

19 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。

20 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、 

21 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。 

22 だから、彼は義と認められたのである。 

23 しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、

24 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。 

25 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。 

 この箇所では、「アブラハムの信仰」(16節)「彼の信仰」(19節)について書かれており、その対象(「何」を信じていたか)と、その性質(どのようなタイプの信仰であったか)が力強く説明されている。

  • 彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。
  • 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。
  • 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。 

 三つの文とも、主語はアブラハムである。アブラハムが信じたのである。そしてそのアブラハムの信仰の対象は、「神自身」であり、「神の約束」であり、「神の忠実さと力」である。

  • この神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神
  • 神の約束
  • 神の忠実さと力:神はその約束されたことを、また成就することができる

 そして20節と21節の原文の動詞が受動相、つまり受け身なのは、信仰の根源が神や神の約束、そして神の性質であることを示し、それが信仰者アブラハムに作用していたことが理解できる。

  • 不信仰によって疑うようなことはせず:【διεκρίθη diekrithē】迷わされる、揺れ動かされる
  • 信仰によって強められ:【ἐνεδυναμώθη enedynamōthē】強くされる
  • 確信した:【πληροφορηθεὶς plērophorētheis】確信させられる

 さらに以下の動詞の相はいずれも能動相なので、アブラハム本人の主体性も示されている。

  • 死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた
  • 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた
  • 栄光を神に帰し 

 つまり信仰の対象は「死人を生かし、無から有を呼び出される」全能の神であり、その約束の御言葉は必ず成就する力をもつが、それは信じる者が単純に受け身でいることを意味するのではなく、「信じる」というアクティブな反応があるのである。

 特に「神に栄光を帰す」という主体的な反応は、信仰義認が神に関する啓示の単なる認知ではないことが示されている。

だから、彼は義と認められたのである。

 悪霊どもが人間より神について知識をもち、「信じて【πιστεύουσιν pisteuousin】おののいている」が、神に義と認められないのは、この「神に栄光を帰す」という信仰の本質が欠けているからである。

ヤコブ2:19

あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。 

 そしてこの信仰による義認は、アブラハムだけの特別なものではなく、御子イエス・キリストを死人の中からよみがえらせた父なる神を信じる全ての信仰者に対しても同様に有効である。

23 しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、

24 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。