an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。

Ⅱコリント5:13-17

13 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。

14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

 「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」

 「かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(新改訳)

 確かに使徒パウロが書いた数々の書簡や『使徒行伝』の中に書かれている彼の宣教の言葉には、イエス・キリストの誕生のストーリーや生い立ち、地上における宣教活動についての言及が全くと言っていいほど無い。あるのは、以下の聖句のような表現ぐらいである。

ローマ1:3

御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、

Ⅰコリント15:3-5

3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、

4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、

5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 

ガラテヤ4:4

しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。

Ⅱテモテ2:8

ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。

 勿論このことは、使徒パウロが主イエス・キリストの生い立ちや地上における活動について、知識を持ち合わせていなかったことを示しているのではない。彼の同労者であり、医者であり、宣教旅行の同行者でもあったルカが書き記した福音書や使徒行伝は、使徒パウロが十分な知識を持っていたことを暗示しているし、何より冒頭の聖句「かつてはキリストを肉によって知っていた」が、明確に彼の知識を示している。(パウロはキリキヤのタルソ出身だが、回心前にパリサイ人としてエルサレムで教育を受け活動していたので、地上宣教の時期のイエス・キリストを見たことがある可能性も否定できない。)

 「今はもうそのような知り方をすまい。」この決意に関して、「パウロがギリシャ哲学に影響を受けて理念的な救い主像を勝手に捏造し、史実的イエスを切り捨てた」と解釈するのは表層的である。

 この決意の動機は、16節冒頭に「それだから」とあるように、一つの明確に根拠から派生したものなのである。それは「キリストの死と復活」、そしてその帰結である「罪人の死と復活」である。

わたしたちはこう考えている。

ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

  パウロのキリストに関する知識が、「肉による知識」から「霊による知識」に昇華したのは、旧約聖書の預言の成就であるメシヤの死と復活に基づくものであり、パウロがその真理の啓示を個人的に受け、「十字架のよる古い全ての死」と「復活による新しい命」を自ら経験し、「新しく造られた者」となっていたからである。

 勿論使徒パウロは、他のユダヤ人使徒よりもギリシャ哲学にも通じていたのは確かである。だが、十字架の死と復活の深い啓示を受けていたパウロにとっては、そのような哲学は、自分が追従していたユダヤ教と同様、キリストの十字架によって「すでに葬られた」存在だったのである。

Ⅰコリント1:18-25

18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。

19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。

20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。

23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、

24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。 

Ⅰコリント2:1-2

1 兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。

2 なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。