an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

使徒パウロの告白

ガラテヤ2:20

19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。

20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。  

  使徒パウロは明確に「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」と告白している。

 しかしこれは使徒パウロの自我が十字架の霊的体験によって完全に消滅し、彼がキリストになったという意味ではない。なぜなら「いま肉にあって生きている私」「神の御子に愛されている私」「御子を信じる信仰によって生きている私」という使徒パウロの自我が存在していることも告白されているからである。

 これは非常に重要な点である。信仰者の自我は、新生体験と同時に消え去り、キリストの自我が完全にとって代わるのではない。それはまた、新生体験者が誘惑から完全に解放され、罪を犯す可能性を失うわけではないことも意味する。

 使徒パウロが告白しているように、キリスト者は「御子の信じる信仰によって生きている」のである。もしキリスト者の自我が新生体験と共に完全にキリストの自我にとって代わるなら、何を信じ、何に希望を持たなければいけないだろうか。すでに実現していることに対して、実現することを待ち望む必要などないはずである。

ローマ8:24-25

24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。

25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

Ⅰヨハネ3:2

愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。 

 「いま肉にあって生きている私」「神の御子に愛されている私」「御子を信じる信仰によって生きている私」という自我が地上の生涯において最後まで残るからこそ、そして「肉」は霊的には退化することはあっても決して改善することはないからこそ、キリストを知れば知るほど信仰者は自分のうちにある「キリストと肉」のギャップを痛感し、晩年の使徒パウロのように告白せざる負えなくなるのである。

Ⅰテモテ1:15

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。

 「わたしは、その罪人のかしらなのである」の原文は現在形である。つまり使徒パウロは回心前の自分を語っているのではなく、テモテに手紙を書いている時点の自分自身に関して告白しているのである。

 当然、この告白は、使徒パウロの「罪深さ」を示しているのではなく、むしろ使徒パウロが「如何に生けるキリストを知っていたか」を示している。