an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「なだめ」「償い」「和解」

Ⅰヨハネ2:1ー2(新改訳)

1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。

2 この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。 

 King James Version訳で「Propitiation」、新改訳で「なだめ」(2017版では、「宥め」)と訳されているギリシャ原語【λασμός hilasmos】は、Revised Standard Version訳では「expiation (償い、罪滅ぼし)」、New International Version訳では「atoning 償い」と訳出している。

KJV

And he is the propitiation for our sins: and not for ours only, but also for the sins of the whole world.

 

RSV

and he is the expiation for our sins, and not for ours only but also for the sins of the whole world.

 

New International Version 
He is the atoning sacrifice for our sins, and not only for ours but also for the sins of the whole world.

 聖書の文脈において「なだめ」という言葉は、「人間の罪に対する神の聖なる怒りをなだめる」という意味をもつ。つまり罪のない御子イエスが全人類の身代わりとなって十字架の上で命を捧げ、死んでくださったことで、罪の報酬(代価)は払われ、罪に対する神の聖なる怒りの根拠が取り除かれたのである。つまり「なだめ」という言葉を使うとき、その対象は神である。

 一方、「償い(つぐない)」という場合、「犯した罪に対して、代価を払って埋め合わせをする」という意味だから、その対象は罪を犯した人間ということになる。God's Word Traslation訳(1995年)は、同じ「償い」というニュアンスでもより現代的な訳だろう。

GWT

He is the payment for our sins, and not only for our sins, but also for the sins of the whole world.

 私は個人的に「宥め」という訳の方が適していると思っているが、改めてこの言葉が使われている箇所を何度も読んでいるうちに、神の聖なる怒りを対象とした「宥め」も、人間の罪を対象とした「償い」も、互いに対立し片方がもう一方を否定するものではなく、双方が互いに補うものではないかと思うようになった。なぜなら、この文脈における中心的主題は、まさに「神と人間との間に立つ弁護者としての御子イエス・キリスト」であるからだ。

もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。

 使徒パウロも霊感を受けて、この真理を書き記している。

ローマ8:34

だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである

Ⅰテモテ2:5-6

5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

 このように観点で考えると、Jubilee Bible 2000訳の「reconciliation 和解」も補足的な訳として参考になるのではないかと思う。

JB2000

and he is the reconciliation for our sins, and not for ours only, but also for the sins of the whole world.

ローマ5:9-11

9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。

10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。

Ⅱコリント5:18-21

18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。

19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。

21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

 やはり聖書を読み解くカギは、常に御子イエス・キリストである。