『ローマびとへの手紙』(42)神を誇り、神を喜ぶ
ローマ5:9-11
9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
「神を喜ぶ」 よくよく考えれば、すごい表現である。「神の祝福を喜ぶ」ではなく、「神を喜ぶ」である。原語「καυχάομαι kauchaomai」は、新共同訳のように神を「誇りとしています」とも訳することができる。KJVは「we also joy in God」とあり、「神において喜ぶ」というニュアンスである。
いずれにせよ、イエス・キリストの恵みによって、「神のうちに身を寄せ、神ご自身を自分の喜びと誇りの対象とする」という意味である。「神を誇りにする」というニュアンスは、私たちが主観的に喜ぶような状況ではないと思う時、感情的に喜びが湧いてこないような逆境や屈辱の中にいるとき、私たちの力になる真理ではないだろうか。
周囲から全く理解されず、侮蔑され、一人苦しんでいる信仰者のうちにも、絶えず「誇り」となるものがある。否、「誇り」となる「方」がいるのである。それは「主なる神」自身である。苦難の時のヨブやエジプトの牢獄の中のヨセフ、石打の刑をうけているステパノ、牢獄の中の使徒パウロ、そして何より十字架の上の御子イエスのように、たとえ目に見える形で現れる祝福に囲まれていなくても、御霊を通して信仰者の中に宿る「主なる神」は誰も奪い去ることはできず、その誇りは永遠の存在するのである。そしてこのように「神を誇る」時、信仰者の心の中に、静かでとても深い霊的な喜びが与えられるのである。
詩篇105:3-4
3 その聖なるみ名を誇れ。主を尋ね求める者の心を喜ばせよ。
4 主とそのみ力とを求めよ、つねにそのみ顔を尋ねよ。
エレミヤ9:23-24
23 主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。
24 誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。
ピリピ3:3
神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。