an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

十字架体験(1)

 ガラテヤ1:6

あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。

ガラテヤ3:1

ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。

 使徒パウロが、ガラテヤ地方の諸教会の信徒たちに呆れ、憤慨し、途方に暮れていた(ガラテヤ4:20)のは、彼らがある種の教義に関して無知・無関心・無理解であったからではなかった。むしろ、「あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになった方(who called you by the grace of Christ)」「十字架につけられたイエス・キリスト」という、見えない神の明確な人格的啓示を見と、その方との個人的交わりを体験していたにもかかわらず、彼らがその「大きな経験」(ガラテヤ3:4)から離れ、空虚な宗教性に惑わされていたからであった。

 「あなたの罪のために十字架につけられているキリストを見たのに、どうしたらそれを忘れることができたのだ」「あなたはキリストの恵みの中で、主なる神の抱擁を体験したのに、なぜその方から離れられるのだ」と、途方に暮れていたのである。

 実際、聖書が啓示する信仰とは、教会で語られる聖書の教えを受け入れるという知性的な面だけに限らず、もっと強烈な、生けるキリストとの人格的出会いであり、個人的な交わりの体験である。そこには「罪の告白とその赦し」があり、「神との平安」があり、「全く新しい命の喜び」がある。

 あなたがクリスチャンならば、確かにあなたは十字架につけられたイエス・キリストの前で自分の罪深さを泣きながら告白し、「あなたのすべての罪を赦す」という神の愛の声を聞き、キリストの復活による新しい命を体験したはずである。

 あなたは今まで出会った誰よりも霊的で熱心で知識が豊富な信仰者に出会うかもしれない。よりオープンでフレンドリーな教会に誘われるかもしれない。聴いてて心地良いメッセージや、傷ついた心を包み込むソフトな雰囲気に包まれるかもしれない。

 それでもやはり、生ける神とあなたの真の交わりは、十字架のつけられたイエス・キリストから離れては存在しないことを心に深く深く刻んでおこう。ガラテヤの信徒たちのように惑わされ、自分を本当に愛しておられる方の、その決して変わらない愛のしるしから目を逸らしてしまう弱さを、彼らと同じように私たちも持っているのだから。

ガラテヤ6:14-16

14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。

16 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。