an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

信じる者の心を扇動し、自由を奪う教え(2)

ガラテヤ5:2-12

2 見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。 

3 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。 

4 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。 

5 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。 

6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。 

7 あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。 

8 そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。 

9 少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。 

10 あなたがたはいささかもわたしと違った思いをいだくことはないと、主にあって信頼している。しかし、あなたがたを動揺させている者は、それがだれであろうと、さばきを受けるであろう。 

11 兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を宣べ伝えていたら、どうして、いまなお迫害されるはずがあろうか。そうしていたら、十字架のつまずきは、なくなっているであろう。 

12 あなたがたの煽動者どもは、自ら不具になるがよかろう。 

 なぜ使徒パウロは、「もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう」とまで断言しているのだろうか。肉体に割礼を受けることがキリストを否定する程、重大なことなのだろうか。

 キリストが割礼の本来の目的と意味をその十字架の死によって完成したがゆえに、肉体における割礼には意味がなく、それに頼るということは、キリストによる「心の割礼」を無にする行為だと宣言しているのである。

 この「心の割礼」については、すでに申命記においてモーセ自身が語っている。

申命記10:16

それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。

30:6(口語訳)

そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。

(新改訳)

 あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。

  神に聞き従わない、頑固で無神経な心の状態を「心が包皮で包まれている」状態であるとしている。新約聖書において、使徒パウロが「良心に焼き印をおされている」(Ⅰテモテ4:2)と表現している、「罪によって霊的感覚が破壊されてしまっていて、聖霊の働きに反応しなくなっている」状態である。

 神はその心の包皮を切り捨て、心を尽くし、精神を尽くし、主なる神を愛し、命を得させるようにしてくれると言っているのである。だから、主の前に遜り、「心の割礼」を主が施されるままに受け入れなさい、と命じているのである。

  預言者エレミヤの時代にも、主なる神は同じように民に語っている。

エレミヤ4:4

ユダの人々とエルサレムに住む人々よ、あなたがたは自ら割礼を行って、主に属するものとなり、自分の心の前の皮を取り去れ。さもないと、あなたがたの悪しき行いのためにわたしの怒りが火のように発して燃え、これを消す者はない」。 

  勿論、人間には自分自身の心に割礼を施すことなどできないことは、イスラエルの民の歴史が証明している。だからこそ、申命記30:6は神の偉大な約束であり、神はそれを御子の十字架の死と復活を通して成し遂げたのである。

コロサイ2:8-13

8 あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。 

9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、 

10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、 

11 あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。 

12 あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。 

13 あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。 

14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。 

15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。 

  信仰によってキリストの中に入れられることによって、キリストの死と葬りと復活を経験し、それによって「キリストの割礼」を受け、そして真に神の命を得ることができるのである。「肉のからだ」(物質的な肉体ではなく、アダムに属する全てを差す)を脱ぎ捨てた以上、「手による割礼」は全く必要ないのである(死んで葬られてしまったものに、割礼を施す意味があろうか!)

 使徒パウロは、この「キリストの割礼」こそ、真の「心の割礼」であると言っている。 

ローマ2:25-29

25 もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。 

26 だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。 

27 かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。 

28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。  

29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。 

ピリピ3:2,3

2 あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。 

3  神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。 

  興味深い点は、モーセの律法に従って生後八日目に割礼を受けていた生粋のユダヤ人であるパウロが、信仰によって無割礼を受けずに救いを受けていた異邦人のピリピの信徒たちを自分と同類にして、「肉を頼みにしない私達こそ、割礼の者である」と宣言しているところである。「私こそ割礼の者である」とも「あなたたちも割礼の者である」ともいっていないのである。これは、「手による割礼」を受けているかどうかなどは問題ではなく、「キリストの割礼」こそ全ての信徒が共有する、重要な真理であることを啓示しているのである。

 実際、使徒パウロは「肉による割礼」と「キリストによる心の割礼」を比較について、三度も繰り返し語っている。

ガラテヤ5:6

キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。 

Ⅰコリント7:17-19

17 ただ、各自は、主から賜わった分に応じ、また神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきである。これが、すべての教会に対してわたしの命じるところである。 

18 召されたとき割礼を受けていたら、その跡をなくそうとしないがよい。また、召されたとき割礼を受けていなかったら、割礼を受けようとしないがよい。 

19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。 

ガラテヤ6:12-15

12 いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼を受けさせようとする。 

13 事実、割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである。 

14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 

15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。 

  肉体的割礼が有る無しは問題ではなく、ただ「キリストにおる心の割礼」を受けることによって、「愛によって働く信仰によって」「新しく造られ」、同じく「愛によって働く信仰によって」「神の戒めを守ること」が、尊く、そして重要なのである。

 このようなキリストの真理の前提があるにもかかわらず、それでもなお、あえて「手による割礼」を受けようとするならば、「死んで葬られたもの」を「葬られたことはなく、まだ生きていて、価値と力がある」とみなすわけだから、律法を全て行う義務があるのは当然であり、意識的にせよ、無自覚にせよ、キリストのなかにいることによってのみ実現する「心の割礼」を無力とみなすわけだから、「キリストから離れ」「恵みから落ちる」、つまり唯一の「道」であり「真理」であるキリストから逸れて、他の道に迷い込んでしまっている、と聖霊に判断されるのは当然である。

 そのような勧めは、私達を召してくださった神から出たものではない、扇動者の偽善な教えである。

 

)へ続く