an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「第三神殿建造による変革」と「主イエス・キリストによる救いの喜び」

 サイト『聖書を歴史的背景から読む』のhirokuro氏の聖書解釈法や多くの意見には同意できないが、記事『古代ユダヤ教と現代ユダヤ教の違い』はとても興味深いと思う。特に第三神殿建造に対する現代ユダヤ教のとまどいに関する視点は面白いと思ったので、部分的にでも引用したい。ぜひ記事全体を読むことをお勧めする。

 しかし、神殿なしに2000年近くが経過し、神殿なしのユダヤ教に慣れきってしまった今日のユダヤ人にとって、神殿再建を考えることはきわめて困難な状況にあることは間違いありません。もしイスラム教徒側が「エルサレムのモスクをお返しします」とでも言ったなら、ユダヤ人は喜ぶどころか、大いに当惑するはずです。なぜなら、神殿再建は、現代ユダヤ教が古代ユダヤ教に復帰することを意味していて、それは建前上ユダヤ人は拒否できませんが、実際上はユダヤ人にとってしんどいことだからです。もし、神殿が再建されたなら、今まで中止していた神殿祭儀を復活しなければならなくなるどころか、現代ユダヤ教の根幹を変革しなければならなくなってしまいます。

 しかし、ユダヤ人は理論上、神殿再建を拒否できません。ここに現代ユダヤ教の矛盾・・・というか、苦悩があります。

  聖書には大患難期のエルサレムに第三神殿が再建されることが預言されていて、その預言をもとに準備を進めている団体(The Temple Institute: Events at The Temple Institute)も実際にある。

 確かに神殿再建によって西暦70年のエルサレム陥落による神殿破壊から現在に至るまで続いているシナゴーグ中心の礼拝形式が、神殿祭儀中心になるわけだから、大きな変革と言えるだろう。一世紀にはすでに、「しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。」(使徒7:48)というステパノの言葉でも理解できるように、神殿礼拝派と、それに重要性を見出さないグループ(イスラエルの土地から離れて生活していたギリシャ語を話すユダヤ人たちが中心であった)の確執は存在していた。

 しかし第三神殿再建の際には、神殿礼拝回帰を歓喜するグループと、タルムードを中心とする教義主義者の間で、それ以上の対立があると想像する。私はその対立の要素も、大患難の時期のイスラエル人の救いのきっかけになるのではないかと思う。

 そして神殿礼拝派の喜びは、反キリストが自分を神と宣言し神殿に入る時、絶望に変わるだろう。

Ⅱテサロニケ2:3-4

3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。 

4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。 

  しかしよく考えてみれば、神殿再建による現代ユダヤ教の変革など、大患難期の多くのユダヤ人が真のメシアを受け入れて救われることの「大変革」に比べたら、一過性の大した出来事ではないだろう。そこで生まれる喜びは、反キリストによる大迫害さえもものともしないのだから。史上最悪の時代において、地と天に大いなる喜びがあるだろう。

ローマ11:25-27

25 兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、 

26 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。

27 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。 

 

関連記事: