葦の海に通じる荒野の道
出エジプト13:17-20(新共同訳)
17 さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。
18 神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。
19 モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。
20 一行はスコトから旅立って、荒れ野の端のエタムに宿営した。
21 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。
22 昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。
この箇所において新共同訳は、主なる神がイスラエルの民をエジプトから導き出した時のルートに関して、「葦の海に通じる荒野の道」と訳出している。新改訳や口語訳は「葦の海に沿う荒野の道」「紅海に沿う荒野の道」と訳出し、シナイ山への道程の異なる解釈の影響が見受けられる。
英語訳においては、以下のバージョンなどがその方向性を明確に訳出している。
(New International Version)
So God led the people around by the desert road toward the Red Sea. The Israelites went up out of Egypt ready for battle.
(International Standard Version)
So God led the people the roundabout way of the desert toward the Reed Sea. The Israelis went up from the land of Egypt in military formation.
最近の記事において何度か、聖書が現代のアカバ湾のことを「葦の海」と呼んでいること(民数記21:4やⅠ列王9:26を参照)を示したが、その前提に基づくならば、「葦の海に通じる荒野の道」は下図の赤線で示されている「王の道」であると思われる。(ちなみに青い線は、新共同訳の表現を使うなら「ペリシテ街道」、つまり「海の道 Via Maris」である。)
「海沿いの道」ではなく「荒野の道」と表現していることも意味深い。
この「王の道」は、エジプトとメソポタミアやアラビアを結ぶ重要な交易路を構成しており、紀元前20世紀頃にはすでに利用されていた。エジプトのファラオ(パロ)からミデアンの地に逃亡したモーセも、最短距離でミデアンへ行けるこの道を選んだのでないかと推測できる。
またホレブ山で主なる神から召命を受けた後、妻子を連れてエジプトに戻る時も、この道を通って行ったのではないだろうか。
出エジプト4:19-20
19 主はミデヤンでモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」
20 そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。
しかしこの場合、その後にモーセが兄アロンと神の山で出会うエピソードの解釈がわかりづらい。
出エジプト4:27-28
27 それから、主はアロンに仰せられた。「荒野に行って、モーセに会え。」彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。
28 モーセは自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。
エジプトに戻る旅の途中で神の山を通ったということは、モーセがミデアンの地の東の地域に住んでいたからかも知れない。(しかしエジプトで奴隷だったはずのアロンは、一体どこから来たのだろうか。)
出エジプト3:1
モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
この「葦の海に通じる荒野の道」で興味深い要素は、エタムという名の途上の宿営地である。
一行はスコトから旅立って、荒れ野の端のエタムに宿営した。
そして主なる神は、このエタムの先で、突然イスラエルの民に進路変更するように命令した。
民数記33:5-8
5 こうしてイスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに宿営し、
6 スコテを出立して荒野の端にあるエタムに宿営し、
7 エタムを出立してバアル・ゼポンの前にあるピハヒロテに引き返してミグドルの前に宿営し、
8 ピハヒロテを出立して、海のなかをとおって荒野に入り、エタムの荒野を三日路ほど行って、メラに宿営し、
エタムは聖書における原語では【אֵתָם 'êthâm ay-thawm'】であるが、以下の現代の地図上で【Ath Thamad】と書いてある地点ではないかと言われている。
同じ地図のヘブライ語版。
以下、民数記33章の記述を基に、イスラエルの民の道程と宿営地、そして時期について表にしたものを添付する。
ラムセスを出発してから、葦の海を横断し、シナイ山の麓の平野まで約1か月半かかったことがわかる。
出エジプト16:1
ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。
出エジプト19:1
エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。
また「宿営」とは、天幕を張って停留したことを意味し、民数記33:8から考えると、必ずしも毎晩休んだ場所で天幕を張っていたのではなく、三日路程歩き、大群衆が天幕を張ることができる空間で宿営していたと推測できる。
ピ・ハヒロテから旅立って海の真中を通って荒野に向かい、エタムの荒野を三日路ほど行ってマラに宿営した。
また少なくともエジプト軍の追跡を恐れていた時、つまり葦の海までは、民は「昼も夜も」歩いて先を急いでいたことがわかる。
出エジプト13:21
主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。
こうして読んでみると、主なる神はペリシテ街道という近道があったにもかかわらず、より困難な「葦の海に通じる荒野の道」をイスラエルの民に通らせ、さらにその道から離れて、まるで「荒野に閉じ込められたような出口のない道」を南下させ、「海のなかをとおって」、つまり「道なき道」を通るように導いたのであった。
当時のイスラエルの民は、エジプトで奴隷として生れ、自由に行きたいところに行ける身分ではなかった。おそらく自分たちがどこへ向かっているか理解している人は、ミデアンの地で羊飼いとして40年間過ごしたモーセぐらいだったのではないだろうか。
全く初めて通る荒野の道。どこまで続いているかわからない狭い渓谷の道。荒野の夜の闇に包まれた道。民が不安になるのも理解できることである。
しかしそのような道を進むように導かれた主なる神が、その民と共におられたことは、人生において同じような「道」を歩む私たちにとって、大きな慰めである。
主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。
Ⅰコリント10:1-4
1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
Ⅰコリント10:13
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。