フィレンツェのサン・ロレンツォ教会(Basilica di San Lorenzo)の中庭のオレンジの木。生茂る緑の葉の隙間に、オレンジ色の実が鮮やかに輝いていた。
手入れの行き届いた中庭は立ち入り禁止になっていて、反射的に創世記のエデンの園に関する記述を思い出してしまった。
創世記3:22-24
22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。
主なる神は、人が罪の中で永遠の生きることが無い様に、エデンの園から追い出し、命の木に近づけないようにした。
しかし御子イエス・キリストの救いのわざによって、彼を信じ、最後まで信仰のうちに耐え忍び、勝利を得る者が、命の木の実にあずかることができる恵みを備えてくださった。
黙示録2:7
耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。
黙示録22:2
都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
(この聖句で、「いのちの木」が川の両側にあるにもかかわらず、「木」が単数形であるのが興味深い。集合名詞として解釈すればいいのだろうか。)
黙示録22:14
いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
黙示録22:19
また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
しかし新約聖書に書かれている主イエス・キリストの啓示のさらに驚くべきことは、彼が御自身のことを「神のパラダイスにある命の木」という、絶対的不可侵の領域にあった未知のシンボルには喩えず(御子が永遠の命であることを考えれば、決して間違っていることではないが)、むしろ「パン」という、ごく日常的に口にする素材に喩えていることである。
ヨハネ6:35
イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
ヨハネ6:47-51
47 よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。
48 わたしは命のパンである。
49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。
50 しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。
51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
勝利者に与えられる「神のパラダイスにある命の木」の啓示は栄光に満ちたものだが、イエス・キリストのもとに身を寄せる全ての者に与えられる「天から下ってきた命のパン」という神の遜りの啓示は、この地上において肉体と共に日常生活を営む私達にとって、大いなる慰めに満ちたものではないだろうか。