ローマ1:3aー4
御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。
これがわたしたちの主イエス・キリストである。
ここでは、御子イエス・キリストに関する簡潔で深遠な啓示が記述されている。使徒パウロの福音理解の重要な要素である「肉と霊」の二つの観点を用いて、イエス・キリストについて語っている。
- 肉によればダビデの子孫から生れ
- 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた
この「肉」は、単なる肉体を指しているのではなく、肉体的・地上的あり方や価値観に生きる人間そのものである。つまりイエスはダビデ王の子孫から生れ、一人のユダヤ人として地上の誕生したのである。
しかし、イエス・キリストを「肉」によってのみ知ることはできない。「聖霊によって」知らなければ、本当に生けるキリストを知っているとは言えないのである。
洗礼者ヨハネはイエスと親戚関係にあったが、イエスが宣教活動を始めたとき、「わたしはこのかた(イエス・キリスト)を知らなかった」と語った。
ヨハネ1:29-34
29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
使徒パウロも以下のように語っている。
Ⅱコリント5:14-16
14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。
聖霊の啓示によって、死から復活し、この世に宣言された(「神の御子と定められた」とは、復活したことによってイエスが「御子となった」のではなく、永遠に存在し、宇宙を創り、それを支えてきた御子に関して、父なる神が御子の復活を通して普遍的にこの世に宣言したことを指す。)
旧約聖書には、来るべきメシアがダビデ王の「若枝」として生まれる預言が数多くある。
イザヤ11:1
エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、
エレミヤ23:4-5
主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。
エレミヤ33:15-16
15 その日、その時になるならば、わたしはダビデのために一つの正しい枝を生じさせよう。彼は公平と正義を地に行う。
16 その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。
ゼカリヤ3:8
大祭司ヨシュアよ、あなたも、あなたの前にすわっている同僚たちも聞きなさい。彼らはよいしるしとなるべき人々だからである。見よ、わたしはわたしのしもべなる枝を生じさせよう。
ゼカリヤ6:12-13
12 彼に言いなさい、『万軍の主は、こう仰せられる、見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる。
13 すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して治める。その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある』。
つまりエッサイ(ダビデの父の名)から出る子孫(若枝)は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行うと預言されていたのである。
そして黙示録に非常に興味深い啓示がある。
黙示録5:5(新改訳)
すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
黙示録22:16(新改訳)
「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
口語訳は「ダビデの若枝」と訳しているが、原語(ῥίζα Rhiza)の意味は「根」「根から出るもの」という意味である。文語訳と新共同訳は「ダビデのひこばえ」とあまり聞き慣れない言葉を使っている。「ひこばえ」とは、「切り株や木の根元から出る若芽」という意味をもつ。英語訳はほとんどが「Root」と訳している。イタリア語訳もすべて英語の「Root」にあたる「Radice」という言葉で訳している。原語がもつ意味を考慮すれば、「根」と訳すことも「ひこばえ」と訳すこともできるだろう。ただ「根」と「ひこばえ」では、かなりイメージが違うが。
根は幹を地中で支え、木が枝を拡げ成長をするのを力を与える。霊的シンボルとして捉えれば、イエスはダビデの子孫として生まれたが、神の御子としては、「ダビデの根」にあたるのである。つまり、御子は「見えない神のかたち」として永遠に存在し、その御子のかたちに従ってアダムが創造されたように、御子は「人類全体の根」として人間の発端であり、支えであり、命そのものである。この御子の隠れていた霊的奥義が、復活を期にこの世に宣言され、啓示されたのである。
マタイによる福音書の系図が「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」と始まり、イエスがアブラハムの子孫であり、またダビデの子孫であることを示しているのに対し、ルカによる福音書は「エノス、セツ、アダム、そして神にいたる」(ルカ3:38)とし神までさかのぼっている啓示していることは、「ダビデの根、そして子孫」というイエス・キリストの二面を暗示していると言えるだろう。
追記(2015年10月1日):
エレミヤ23:5やゼカリヤ3:8;6:12で「枝」と訳されているヘブル語「צמח tsemach」は、旧約聖書のギリシャ語訳であるLXX訳においては、「ἀνατολή anatolē」が使われ、「光の出現、夜明け、東方」という意味をもつ。
ルカによる福音書では、聖霊に満たされたゼカリヤ(洗礼者ヨハネの父)がメシアの顕現を「日の光」として啓示し、そこでは「anatolē」が使われている。
ルカ1:78-79
78 これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、
79 暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。
これは預言者イザヤのメシア顕現の預言の成就として、理解されていたのだろう。
イザヤ9:1-2
1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
同じくルカによる福音書の中に、メシヤの顕現を「異邦人を照らす光」としてシメオンの言葉も残されている。
ルカ2:28-31
28 シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、
29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、
30 わたしの目が今あなたの救を見たのですから。
31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。
黙示録22:16において、主イエスがご自身のことを「ダビデの根」と啓示すると同時に、「輝く明けの明星」というもう一つのメシアの称号を使っているのを、「光の出現、夜明け、東方」という意味をもつ「anatolē」と一緒に関連付け、包括的に解釈することもできるだろう。
追記2(2015年10月2日):
使徒パウロは、『ローマびとへの手紙』の中で、イザヤ11:10をLXX訳から引用し、「エッサイの根から出た芽」がイエス・キリストであることを啓示している。
イザヤ11:10
その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。
ローマ15:8-12
8 わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、
9 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、「それゆえ、わたしは、異邦人の中であなたにさんびをささげ、また、御名をほめ歌う」と書いてあるとおりである。
10 また、こう言っている、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。
11 また、「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
12 またイザヤは言っている、「エッサイの根から芽が出て、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。