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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(27)私たちの執り成しの祈りまで遜ってくださる神

創世記18:17-33

17 時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。

18 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。

19 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。 

20 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、

21 わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。

22 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。

23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。

24 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。

25 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。

26 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。

27 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。

28 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。

29 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。

30 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。

31 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。

32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。

33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。 

 アブラハムは主なる神よりイサクの誕生を約束され、将来の祝福の啓示を受けた後、ソドムの罪に対する神の裁きの示しを受けた。ここでアブラハムは自分に与えられた祝福の約束に満足し、主の前から立ち去ることもできた。「やっと二十五年間待った息子が来年の今頃、生まれるのだ。邪悪なソドムの町が裁きを受けようが、私には関係ないことだ」「重苦しい話は聞きたくない」と。

 しかし「アブラハムはなお、主の前に立って」、ソドムの住人のために執り成しの祈りをしていた。自分は「ちり灰に過ぎず」、ただ神の恵みによって義と認められたこと(創世記15:5,6;ローマ4:1-5)を自覚していたからだろう。

 このアブラハムの態度は、同じ時間にソドムの門に座っていたロトの態度と鋭い対比をなしている。

創世記19:1a

そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。そのときロトはソドムの門にすわっていた。

 「門に座る」とは、ロトがその町の要職に就いたことを示している。実際、ソドムの町の人々は、ロトが二人の御使いを守ろうとした時、ロトのことを「いつも裁き人になろうとするよそ者」と罵倒している。

創世記19:6-9

6 ロトは入口におる彼らの所に出て行き、うしろの戸を閉じて、

7 言った、「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。

8 わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」。

9 彼らは言った、「退け」。また言った、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした。 

 使徒ペテロが書いているように、ロトはソドムの町の住人の放縦な行いを見て悩まされていた。

Ⅱペテロ2:6-8

6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、

7 ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。

8 (この義人は、彼らの間に住み、彼らの不法の行いを日々見聞きして、その正しい心を痛めていたのである。) 

 町の中にいて人々の腐敗と放縦を見、その正しい心を痛めていたが、ロトは叔父アブラハムのように執り成しの祈りを捧げることはなかった。「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。」と言うだけで、その「兄弟たち」の中から信仰によって救われるものが幾人かでも与えられるように、神の前に遜り、食い下がって祈ることはなかった。

 私達クリスチャンはどうだろうか。自分達に与えられる祝福だけに満足してしまっていないだろうか。この世がやがて神の裁きを受けるという啓示を知りながらも、執り成しの祈りを促す聖霊の働きに背き、神の御前に留まることを怠っていないだろうか。ロトのように、神を知らない人々の間に身を置き、彼らの罪を指さしながら、心を痛め、嘆き、悩むだけで、彼らの救いのためには祈りを捧げたり、執り成しの祈りの中で彼らの隣人になろうとしない、「いつも裁き人になろうとするよそ者」になっていないだろうか。

 しかしこのエピソードにおいて何より驚くのは、主なる神の遜った姿勢である。神はソドムの町の人々が頑なで、悔い改めず、やがて滅ぼされるを知っておられた。それでもアブラハムの所まで「降りて行き」、彼の執り成しの祈りに対して応答しているのである。

正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。

 このアブラハムの「まっとうな意見」を受けている神が、何世紀も後になって人となり、罪人の救いのために、「極悪犯罪人」「反逆者」「冒涜者」「偽メシア」として罪人によって裁かれ、十字架の上で呪いの死を遂げる神であることを知ると、その神の遜りと忍耐に驚嘆するしかないのである。

 私たちは執り成しの祈りの中で、人の心を打つような慈悲に満ちた言葉を使うことができないかもしれない。神の御心や計画を知らず、自分の考えや願望を神に押し付けるような祈りになっているかもしれない。むしろ何をどう祈ったらいいかわからず、ただ黙っているだけしかできないかもしれない。しかしそんな私たちの心の中にイエス・キリストは降りて来てくださり、聖霊を通して執り成しの祈りを捧げてくださるのである。

ローマ8:26,27

26 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。

27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。 

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