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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ロトのことも思い出しなさい(6)「見えるもの」による選択の罠

ロトのことも思い出しなさい(1) - an east window

ロトのことも思い出しなさい(2) - an east window

ロトのことも思い出しなさい(3)恐れに蝕まれた心 - an east window

ロトのことも思い出しなさい(4)妥協による忌まわしい実 - an east window

ロトのことも思い出しなさい(5)ルツとナアマ - an east window

 アブラハムの甥ロトの人生について聖書に記述されている内容を省察すると、彼の人生の要所における選択に、ある共通の要素が見出せる。

 叔父アブラハムに従ってハランの地からカナンの地へ移住し、飢饉によってエジプトへ下って行ったときにもついていき、その後一緒にカナンの地へ戻ってきたロトは、そこで一つの大きな選択を強いられた。

創世記13:5-13

5 アブラムと共に行ったロトも羊、牛および天幕を持っていた。

6 その地は彼らをささえて共に住ませることができなかった。彼らの財産が多かったため、共に住めなかったのである。

7 アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間に争いがあった。そのころカナンびととペリジびとがその地に住んでいた。

8 アブラムはロトに言った、「わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう。

9 全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」。

10 ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。

11 そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。

12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。

13 ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。

  ロトがヨルダンの低地を選んだ基準は、彼が「あまねく見渡し」、その地が「主の園(エデンの園のこと)のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた」からである。彼は「物質的に目に見える繁栄」によって判断し、目には見えないソドムの人々の邪悪な影響を軽視したのである。

 その後、メソポタミアの王の連合軍の侵略によって戦利奴隷として連れ去られ、叔父アブラハムによって救われるという、非常に危険な経験をした時も、ロトは「目に見えるもの」によって判断し、ソドムに戻る選択をした。(参照記事:生けるキリストを求めて(22)アブラハムの目の前に立つ二人の王 - an east window

創世記14:21-24

21 時にソドムの王はアブラムに言った、「わたしには人をください。財産はあなたが取りなさい」。

22 アブラムはソドムの王に言った、「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、わたしは誓います。

23 わたしは糸一本でも、くつひも一本でも、あなたのものは何にも受けません。アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように。

24 ただし若者たちがすでに食べた物は別です。そしてわたしと共に行った人々アネルとエシコルとマムレとにはその分を取らせなさい」。

 この時点で、ロトの目の前には自分と家族を救い出してくれた叔父アブラハムと、自分が住んでいたソドムの地の権力者ベラがいた。アブラハムが戦利品を全く受けようとせず、空手でカナンの地に帰ろうとしたのとは対照的に、ソドムの王ベラはアブラハムが受け取ることを拒否した人や奴隷、家畜、財産のすべてを取り戻し(アブラハムが、ロトの財産をロトに返すためにソドムの王と交渉しなかったことは、大変意味深い)、ほくそ笑んでソドムの町に帰ろうとしていたのである。

 そしてロトはソドムの王の配下に生きることを選んだ。この選択は、預言者エリシャがシリヤの将軍ナアマンのらい病を癒やしたとき、感謝の贈り物を受け取ることを拒否した後、エリシャの弟子ゲハジが取った愚行を連想させる。

列王下5:14-27

14 そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。

15 彼はすべての従者を連れて神の人のもとに帰ってきて、その前に立って言った、「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。それゆえ、どうぞ、しもべの贈り物を受けてください」。

16 エリシャは言った、「わたしの仕える主は生きておられる。わたしは何も受けません」。彼はしいて受けさせようとしたが、それを拒んだ。

17 そこでナアマンは言った、「もしお受けにならないのであれば、どうぞ騾馬に二駄の土をしもべにください。これから後しもべは、他の神には燔祭も犠牲もささげず、ただ主にのみささげます。

18 どうぞ主がこの事を、しもべにおゆるしくださるように。すなわち、わたしの主君がリンモンの宮にはいって、そこで礼拝するとき、わたしの手によりかかることがあり、またわたしもリンモンの宮で身をかがめることがありましょう。わたしがリンモンの宮で身をかがめる時、どうぞ主がその事を、しもべにおゆるしくださるように」。

19 エリシャは彼に言った、「安んじて行きなさい」。ナアマンがエリシャを離れて少し行ったとき、

20 神の人エリシャのしもべゲハジは言った、「主人はこのスリヤびとナアマンをいたわって、彼が携えてきた物を受けなかった。主は生きておられる。わたしは彼のあとを追いかけて、彼から少し、物を受けよう」。

21 そしてゲハジはナアマンのあとを追ったが、ナアマンは自分のあとから彼が走ってくるのを見て、車から降り、彼を迎えて、「変った事があるのですか」と言うと、

22 彼は言った、「無事です。主人がわたしをつかわして言わせます、『ただいまエフライムの山地から、預言者のともがらのふたりの若者が、わたしのもとに来ましたので、どうぞ彼らに銀一タラントと晴れ着二着を与えてください』」。

23 ナアマンは、「どうぞ二タラントを受けてください」と言って彼にしい、銀二タラントを二つの袋に入れ、晴れ着二着を添えて、自分のふたりのしもべに渡したので、彼らはそれを負ってゲハジの先に立って進んだが、

24 彼は丘にきたとき、それを彼らの手から受け取って家のうちにおさめ、人々を送りかえしたので、彼らは去った。

25 彼がはいって主人の前に立つと、エリシャは彼に言った、「ゲハジよ、どこへ行ってきたのか」。彼は言った、「しもべはどこへも行きません」。

26 エリシャは言った、「あの人が車をはなれて、あなたを迎えたとき、わたしの心はあなたと一緒にそこにいたではないか。今は金を受け、着物を受け、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛、しもべ、はしためを受ける時であろうか。

27 それゆえ、ナアマンのらい病はあなたに着き、ながくあなたの子孫に及ぶであろう」。彼がエリシャの前を出ていくとき、らい病が発して雪のように白くなっていた。

 ロトはゲハジのようにらい病に冒されることはなかったが、彼の心はさらに「目に見えるもので判断し選択する」という縄目に縛られてしまったのである。

 そして主なる神がソドムの町を裁くにあたって、ロトのことを憐れんでくださった時、主が備えてくださった「救いの山」への道のりを見て、「わが主よ、どうか、そうさせないでください。」と反論し、目の前にあったゾアルの町を見て「あの町をごらんなさい。逃げていくのに近く、また小さい町です。どうかわたしをそこにのがれさせてください。」と妥協案を出したのである。

創世記19:16-20

16 彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。

17 彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。

18 ロトは彼らに言った、「わが主よ、どうか、そうさせないでください。

19 しもべはすでにあなたの前に恵みを得ました。あなたはわたしの命を救って、大いなるいつくしみを施されました。しかしわたしは山まではのがれる事ができません。災が身に追い迫ってわたしは死ぬでしょう。

20 あの町をごらんなさい。逃げていくのに近く、また小さい町です。どうかわたしをそこにのがれさせてください。それは小さいではありませんか。そうすればわたしの命は助かるでしょう」。

 しかしこの妥協案が、ロトを近親相姦の罪に引きずり込み、「呪われた民の父」にしてしまったのである。

 確かにロトはソドムの町に住んでいる時、邪悪な住民たちの放縦で不法な行いを日々見聞きし、悩み、心を痛めていた。

Ⅱペテロ2:6-8

6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、

7 ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。

8 (この義人は、彼らの間に住み、彼らの不法の行いを日々見聞きして、その正しい心を痛めていたのである。)

 しかしその見聞きしていることで心は痛めていても、見えない神を信じて自ら行動することはなかったのである。(なぜロトは神の裁きが下るもっと前に、ソドムの町から離れようとはしなかったのだろうか。)

 使徒パウロがエペソの信徒たちのために祈った祈りは、現代に生ける私達にも不可欠なものである。

エペソ1:15-23

15 こういうわけで、わたしも、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、

16 わたしの祈のたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している。

17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、

18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、

19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、

21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。

23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

 この祈りは、私達がただ目に見える事象で判断し、選択して生きるのではなく、見えない神の霊、イエス・キリストを死から復活させた霊の絶大な力と知恵によって、神の国の希望に満たされて生きるためである。

ローマ8:24,25

24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。

25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

Ⅱコリント5:7

わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。

へブル11:1

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。