an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ナザレの謎(7)底に沈む石

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 今まで6回にわたって考察してきた通り、現代のナザレという町が、切り立つ崖をもつ山の上ではなく、緩やかな丘陵に囲まれた谷間にあるという地理的条件は、ルカ4:29「立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。」という記述に矛盾し、数多くの疑問を生み出すことを提示した。そしてガリラヤ湖北部、ベツサイダの近くにあったガムラという町が、実は本当のイエスの故郷である可能性も示した。

 しかしもしこの可能性が史実だとすると、さらに本質的な疑問が浮かんでくるのである。なぜ福音書記者たちは、ガムラの町の名を隠し、ナザレという町と置き換えなければならなかったのだろうか。ガムラの町の名を残すことを忌み嫌う程の動機とは何だったのだろうか。

 教師をしながら作家活動をしているデイヴィッド・ドンニーニ氏は、このテーマを扱った著書の中で、イエス・キリストが実は、ローマ帝国による隷属から神の民を解放するという大義によって暴力も辞さない活動をしていた熱心党の創立者、ガムラ出身の「ガリラヤ人ユダ」(Judas of Galilee - Wikipedia, the free encyclopedia)をモデルにした架空の人物である、という仮説を主張している研究家である。

 この「ガリラヤ人ユダ」については、使徒行伝の中でも記述がある。

使徒5:37

そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。

 彼の二人の息子、ヤコブとシモンは西暦46年頃にローマ総督ティベリウスによって十字架に架けられ処刑され、また孫のマナエムは西暦66年のユダヤ反乱のリーダーの一人であった。そのマナエムのいとこ、エルアザル・ベン・ヤイルは熱心党員ら他900人以上のユダヤ人とマサダに籠城し(マサダ - Wikipedia)、最後までローマ軍に抵抗した。

 ドンニーニ氏は、「ガリラヤのユダ」の息子たちは実は使徒ヤコブとシモン・ペテロで、エレアザル・ベン・ヤイルは実はマルタとマリアの兄弟ラザロであったかもしれない、とまで主張している。自分の足で現地にいって調査するこの作家の探究心や姿勢は共感するものがあるし、想像力に働きかけるような彼の書く文章も魅かれるものがあるが、やはりイエス・キリストのアイデンティティーに関しては合意することはできない。というより、彼の主張を検証することによって、「イエス・キリストの十字架」に対する信仰と体験こそ、永遠の神の啓示である「真のキリスト」を知り得る唯一の「道」である、ということを逆説的に私に強く示してくれるのである。

ガラテヤ3:13

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

 聖書が「キリストは私達のために呪いになった」という時、その「呪い」とは申命記28:15-68に書かれているような種類の呪いを示す。そこには命あるものとしての尊厳も、神のかたちに造られた人間としてのアイデンティティーも全くない。あるのは混乱と闇と絶望と虚無と喪失である。イエス・キリストが同一化した「律法の呪い」とは、このようなものである。

 旧約聖書にあるメシアの苦難の預言には、以下のように書かれている。

詩篇22:6

6 しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。

7 すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、

8 「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。

イザヤ53:3

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。

また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。

われわれも彼を尊ばなかった。 

 彼は「神の御子」「イスラエルの真の王」「救い主」であったのに、罪人はそのキリストの真実のアイデンティティーを完全に卑しめ、否定し、偽りとしたのである。

マタイ27:39-43

39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって

40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。

41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、

42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。

43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。

 彼のことを信じ、3年間従っていた弟子達さえも、彼らが持っていたキリストに関する知識と期待が、十字架の死によって無となってしまったことに絶望した。

ルカ24:19-21

19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、

20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。

21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。

 「わざにも言葉にも力ある預言者」「イスラエルを救う希望のメシア」であるはずだったのに、十字架に架けられて葬られてしまったのである。

 しかしイエス・キリストは復活した。そして弟子達に御自身を啓示し、戒められた。

ルカ24:25-27

25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。

26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。

27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

  私達はキリストに関してあらゆる本を読み、丹念に調べ、知識の蓄積に基づいて自分なりの「キリスト像」を持つことができる。その知識は聖書の記述を基に構築したものかもしれない。あるいは個人的な経験や感受性を基にしたものかもしれない。しかし、神は十字架の死と復活を通して「真のキリスト」を罪人に啓示する唯一の方法を定めたのである。その十字架によって、地上的世界と罪は「肉にあるキリスト」と共に全て葬られ、キリストの復活によって「霊にあるキリスト」の全く新しい知識が与えられるのである。

Ⅱコリント5:16-17

16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

 『ナザレの謎』と題して、イエス・キリストの故郷の町の問題を「湖に投げ入れた石」に喩えて考察を進めてきたが、私にとってその「石」は大きな波紋を生み出すものには違いないが、それでもやはり、キリストの死という「湖底」に沈んでいく「石」であることには変わりないのである。

 

追記:この問題に関しては、いつか違う観点からまた検証することになるかもしれない。