ガラテヤ3:10-12
10 いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。
11 そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。
12 律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。
「律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。」何という強烈な啓示だろうか。聖書に長年親しんでいても、その圧倒的な力を前に、見てはいけないものを見たような気まずさや、見て見ぬふりをして通り過ぎたくなるような誘惑に駆られたりするのは私だけでだろうか。
「律法」とは、神がモーセを通して与えた律法の事である。その神の律法の「実行に頼る者」(新共同訳)や「律法の行ないに依存するもの」(前田訳)は、皆呪いの下にいるというのである。神が定めた律法を一生懸命守ろうとする努力する者が、なぜ呪われなければならないのだろうか。さらに使徒パウロは、その律法の中から申命記27:26を引用して「念を押して」いる。
「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」
一体誰が律法の「いっさいのこと」「全てのこと」を「堅く守り」、行うことができるというのだろうか。ヤコブもその手紙の中で、律法の容赦ない要求について書き記している。
ヤコブ2:10,11
10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
よく使われるイメージであるが、鎖に掴まって宙にぶら下がっている一人の人間を思い浮かべて欲しい。その鎖の一つの輪でも壊れてしまったら、他の輪が完全であっても、その人は鎖と共に落ちてしまうのである。落下している男の手に残った鎖がその男を救うのに役に立たないように、「私は人殺しなどしたことはありません」と断言したところで、その人の救いには何の役には立たないどころか、その人は律法の呪いの下にあるというのである。そもそも律法が与えられた目的が、人間が自分の正しさを示すためでは全くないのである。
ガラテヤ3:19
それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。
ローマ7:7-14
7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
8 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。
9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、
10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。
11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。
12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。
14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。
律法は、人間の内に宿る罪が如何に罪深いものであるかを本人に認識させるために与えられたのである。その律法がもつ本来の目的が、他の誰よりも律法を守ることに熱心であると自覚していたパウロに、「わたしは肉につける者で、罪の下に売られている」と告白させたのである。
この律法の本来の目的を理解していないために、自分はクリスチャンであると自覚している人のなかでも、ある人は律法自体を神格化や目的化したり、あるいは自己義認の手段としたり(つまり「私はこの戒めを守っているから、大丈夫」と自分で自分のことを正しいと思ってしまう)、反対に律法を無視したり、不要な重荷だと誤解したりしてしまうのである。
Ⅰテモテ1:6-11
6 ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、
7 律法の教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。
8 わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。
9 すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、
10 不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。
11 これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところであって、わたしはこの福音をゆだねられているのである。
この律法の本来の目的について明確な理解が欠けてしまうと、結果として救いの必要性も曖昧になってしまう。かえって、「律法主義的」「偽善的」と表面的に非難することによって、救いの前提を喪失してしまっているのが、残念ながら現代の宣教に共通する現象ではないだろうか。
次回は、聖書が語る「呪い」について考察したい。
(3)へ続く