「十字架か杭か」:不毛な議論と十字架の奥義の素晴らしさ
「十字架か杭か」というテーマに関しては、先日の記事『批判の動機』の中で引用した中澤啓介師の『十字架か杭か』が非常に詳しいので参考にしていただきたい。
個人的に今まで何度もエホバの証人の方と話す機会があったが、このテーマが持ち出される度に私が引用する聖句を共有したいと思う。不毛な議論で、福音を語る貴重な機会を失わないためにも有益だと思う。
ガラテヤ2:19,20
19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」
この真理は、キリストの福音体験の基本であり、真髄であり、全てである、と言っても過言ではない。この言葉を体験し、「生きる」とき、全てはキリストとなり、キリストが全てとなる。ここには「罪の赦し」「神との平和」「心の喜び」だけにとどまらず、「自己からの解放」「遣わされた者としての新しい自己」「この世に対する勝利」「聖霊の満たし」「神の命の満たし」、要するに「すべて」がある。
コロサイ2:9,10a
9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。
勿論、使徒パウロは物質的に十字架の上で磔刑を受けたことはなかったし、「キリストが架けられたのは十字架か杭か」ということなど全く問題にしていない。むしろ彼が語っていることの土台にあることは、「律法の呪いからの解放」である。
ガラテヤ3:13,14
13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
14 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。
ここでパウロは申命記21:23の「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである」を引用しているが、この句で使われているヘブライ語の「木」を意味する「עץ ates」は、旧約聖書全体で二百八十八回使われており、非常に幅広い意味を持ち、「樹木、木、梁、薪、柄、茎、材料としての木」と様々なニュアンスで訳されている言葉である。
特に興味深いのは、エジプトの磔刑のケース(創世記40:19)にも、ヨシュア時代における磔刑(ヨシュア8:29)にも、クセルクセス1世の時のペルシャ帝国における磔刑(エステル7:10)にも、全く同じ単語が使われていることである。つまり、磔刑の様式がエジプト様式かイスラエル様式かペルシャ様式かローマ様式かといった問題なのではなく、公衆の前で木に架けられ処刑されるという恥辱的な死に対する神の呪いについて語られているのであって、キリストはその「呪い」を背負って下さり、それによって私達を「律法の呪い」から解放してくださったこと、その「呪い」の代わりに「アブラハムの受けた祝福」と「約束された御霊」を与えてくださったことを聖書は啓示しているのである。
イスラエルの教師ニコデモは、イエスが新生の必要性を啓示したとき全く理解できなかった。
ヨハネ3:1-11
1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
9 ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。
10 イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。
11 よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。
新生の真理と同様、キリストの十字架の真理も実際に体験しなければ理解できないことである。しかし一度それを体験すると、そのあまりの素晴らしさに「十字架か杭か」という議論が如何に不毛で無意味であるかも、おのずと理解できるのである。