夜、イエスのもとにきて
ヨハネ2:23-25
23 過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。
24 しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、
25 また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。
3:1-15
1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
9 ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。
10 イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。
11 よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。
12 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。
13 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。
14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
「夜イエスのもとにきて」
もしニコデモがユダヤ人の指導者である社会的立場に満たされていたら、 夜中にイエス・キリストのもとに訪問しようとは考えなかっただろう。
彼がもし律法の教師であること、イスラエルの民を教えることができるほどの知識で満足していたならば、夜中にイエス・キリストのもとに訪問しようとは考えなかっただろう。
彼がもしエルサレムの神殿において過ぎ越しの祭の戒めを守ったことで満足していたならば、夜中にイエス・キリストのもとに訪問しようとは考えなかっただろう。
この通常ではありえない時間の訪問は、ニコデモの心の奥底にあった霊的必要性を暗示している。彼は他のパリサイ人や律法学者たちのように、昼間にイエス・キリストの所へ行き、彼の話を聞くこともできたはずである。いや、実際、同僚に紛れて遠巻きからイエス・キリストを観察し、話を聞いていた可能性も高い。
しかしそのようなコンタクトでは、彼の心の必要は満たされなかったのだろう。彼は個人的に御子イエスと話せる時間を選んだ。
だからこそ「全ての人を知っておられる」「人の心の中にあることを知っておられる」御子イエスは、一見無礼とも思える方法で、最も本質的・根源的なテーマである「霊によって新しく生まれる絶対的必要」を真っ直ぐ語ったのである。
先日ある兄弟が、「新しく生まれる必要」について自分の教会の講壇から聞くことがなくなった、と嘆いていた。しかし人の心を知りぬく御子も、人の心の霊的必要も、ニコデモの時代から何も変わっていないはずである。