ラザフォードは、証人たちの失望と落胆の矛先を他に向ける必要があった。そのタ-ゲットになったのがキリスト教世界である。実は、ラザフォードは、その時より数年前、1917年から18年にかけて投獄されなければならなかった。その背景には、キリスト教世界の僧職者階級の陰謀があった、と彼は考えていた。従って、その時以来、キリスト教世界に対し、激しい憎悪の感情をもっていた。そこで、キリスト教世界に証人たちの不満の感情を向けさせるため、キリスト教世界を徹底的に攻撃しはじめたのでる。
協会の攻撃が効果的であるためには、キリスト教世界を背教者に仕立てる必要があった。そこで持ち出されたのが、異教に由来する十字架を、キリスト教会がシンボルに使っている、ということだった。むろん、他にも、クリスマスを祝うことや、エホバという神の名前を使わないことなどがあげられた。
このようにして、ラザフォードは、キリスト教の背教性を指摘し、ものみの塔協会のみが「唯一の神の清い組織」であることを認識させようとした。
では、なぜ、筆者は、「十字架か杭か」などという書物を論じる気になったのか。それは、次のような『ものみの塔』誌の文章にぶつかったからである。
「あなたがキリスト教国の教会に属していられるなら、十字架が異教の象徴であるということを教会でお聞きになったことがありますか。もしないとすれば、教会は真実を隠しているのです。そして明白な異教の象徴を崇めるようにすすめていることになります。」(『ものみの塔』誌1968年5月16日号、317頁)。
筆者は、三十年以上、キリスト教会の牧師をしている。その間、ただの一度も、「十字架が異教の象徴である」と話したことはなかった。この『ものみの塔』誌によれば、筆者は「真実を隠している」ことになる。しかし、それは飛躍した論理であり、言いがかりである。私たちにとっては、「十字架は異教の象徴である」のではなく、「十字架は全人類の贖いの象徴である」のだ。だから、真実を隠しているなどと言われるのは、心外である。
過去の事例を学ぶことは非常に大切である。「今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。」(伝道3:15)とあるように、ほとんどの場合、過去の事例の中に現在目の前にある現象と共通する要素が見つけられるからである。
今回引用した記事が扱っているテーマは「十字架か杭か」で、エホバの証人の教義に関する反証だが、そのテーマの代わりに、「ヤハウェかエホバか」「イエスかヤシュアか」「日曜日か安息日か」等、際限なくテーマを見つけることはできる。テーマ自身の検証は大変重要だが、問題の核心は「動機」にある。もし私がある特定の教えを批判する時、それを行うに当たって、自分の正しさを大々的に、もしくは暗示的に立証するために行うならば、私はその間違った教えの中にいると断定している人々から、自分が思い込んでいるほど「遠く」へは行っていないのである。
洗礼者ヨハネは、パリサイ人や律法学者などの偽善を強烈に批判した。しかし、それ以上に、否、だからこそ、彼は誰よりもキリストのことを明確に証しし、自分自身を無にし、キリストへのみ全ての栄光を帰した。
ヨハネ3:30(新共同訳)
あの方は栄え、わたしは衰えねばならない
主イエス自身、ヨハネ以上にパリサイ人と律法学者の偽善を断罪した(マタイ23)。しかし、彼はその後、自分を無にし、十字架の上で偽善者の罪のためにも命を捧げることによって、彼らに救いの門を示した。
エペソ教会は悪い者たちを赦さず、偽使徒を試し、ニコライ宗のわざに反対していた。 しかしイエスは、その熱心さをもって、否、それ以上に、「初めの愛」で主なる神を愛することを命じている。
黙示2:1-7
1 エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。
2 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。
3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。
4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
6 しかし、こういうことはある、あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。
7 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。