an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

メシアニック・ジュ―を通して働く偽善

ガラテヤ3:1-9

1 ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。 

2 わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。 

3 あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。 

4 あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。 

5 すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。 

6 このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。 

7 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。 

8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。 

9 このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。 

 ここ数年イタリアにおいても、メシアニック・ジュ―の教えに影響された人々が増えており、その現象は複雑多岐で、教会の非常に深い所まで浸透しているように思える。聖書がもつイスラエル・ユダヤ起源性と、未来に約束されているイスラエルの再建に挟まれて、現代のクリスチャンはあまりにも無邪気で、また無防備のように思える。「キリストの福音」、「律法によるわざではなく信仰による救い」、「聖霊による導き」から離れて、使徒パウロが語っていた「肉によって誇る」メシアニック・ジュ―の教えが、シンプルな信仰を蝕んでいる。

 例えば、あるメシアニック・ジュ―の教師は、聖書のイスラエル・ユダヤ起源性を基に、聖書解釈におけるメシアニック・ジュ―の優位性を主張している。「ギリシャ哲学に蝕まれた西洋キリスト教神学は、聖書の本来のメッセージから離れてしまっている。キリストを信じたユダヤ人である私達が、イスラエルの土地と文化を背景にユダヤ人によって書かれた聖書を正しく解釈できるのだ」と教えている。確かに、様々な当時の習慣やユダヤ人独特の考え方を知ることは有益である。使徒パウロも、ユダヤ人の優れたところとして、神の言葉が委ねられている点をまず第一に挙げている(ローマ3:1,2)。

 しかし私たちは、ヘレニズム圏で生まれ、ギリシャ語を話し、しかもエルサレムで聖書を学び、パリサイ人として誰よりも先祖からの伝承に熱心だった「生粋のユダヤ人」パウロを、神は選びだし、救い、異邦人伝道の使徒としてたてたその神の計画をないがしろにしてはいけない。神はこの使徒にキリストの奥義を啓示し、異邦人が真の神を知り、神に仕えることができるように、多くの手紙を書き記すための霊感と遜った心と経験を与えた。また福音の純粋性が律法主義の影響から守られるために、聖霊による勇気と大胆さを与えた。同労者の使徒ペテロが律法主義者たちの偽善に巻き込まれた時、パウロはペテロを皆の面前で戒めた(ガラテヤ2:14)。

 私はユダヤ人差別主義者では決してないが、かといってユダヤ人の純血主義や福音派教会によく見受けられる宗教的シオニズムに対し、単純に賛同することはできない。神はユダヤ人と異邦人を分け隔てることなく、信仰によって救って下さるが、それと同時に、肉の驕りも、ユダヤ人と異邦人の分け隔てなく全ての人に容赦なく働きかけるからである。

 パウロがペテロを戒めた時に、彼の宣教同行者で一番の理解者であったバルナバについても言及していることを、私達は重く見るべきである。

ガラテヤ2:13

そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。

 塚本訳は、「ついにはバルナバまでが彼らの偽善にさらわれたからである」と訳し、新共同訳は「バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」と訳している。これらの「ついには」「さえも」という言葉のうちに、如何に人間が偽善という誘惑に対して弱いのかが見事に啓示されている。

 むしろ生粋のユダヤ人でしかも元パリサイ人だったパウロは、ユダヤ人の特異性のうちにこそ、より強い偽善の誘惑が働くことを熟知していたからこそ、ピリピ人への手紙の中で以下のように書き記したのであろう。

 ピリピ3:2-9

2 あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。 

3 神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。 

4 もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。 

5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、 

6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。 

7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。 

8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、 

9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

 もしパウロがあの時、「空気を読んで」曖昧な態度をとっていたら、私達が聖書を通して知ることができるパウロは存在していなかったかもしれない。今の時代を見ると、私達はパウロと同じような状況に立たされ、選択を迫られている、と思うのは大げさだろうか。