an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

弱い時こそ、強い

 最近ルーマニア人の兄弟から、以前私が訪問して交わりの時を持ったことがある一人の牧師の現況を聞いた。十年以上前に訪問した時は、いくつもの教会の牧師を兼任し、一日に二か所以上の教会の礼拝を毎日していた。ヤコブの手紙の御言葉通り、病気で自宅から出られなくなっていた一人の姉妹の家に訪問し、彼が油を注ぎ祈ったところ、その場で病気が癒されたのを私はこの目で見た。まさに、御言葉の力と謙虚さに満たされた、真の神のしもべであった。

 そんな彼は、悪化した特殊な病気が原因で、家から一歩も出れなくなってしまった。勿論、牧会奉仕はできないので、全てを後任者に委ねた。しかし、彼に会うために彼の家を訪れる人が後を絶たないそうである。そして、訪れた病人は彼と共に祈ることによって癒され、悪霊に憑かれた人(独善牧師の都合によって悪霊扱いされた人ではなく、正真正銘の悪霊に憑かれた人)も解放されているというのである。また訪れた多くの未信者の魂が救われているということである。

 しかし彼は病気のままで、ほとんど身動きできず、牧会もできずに、社会から隔絶された状態で生きている。

Ⅱコリント12:7-10

7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。 

8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 

9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 

10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

  人間の安っぽい概念で縛れるほど、神の手は弱くない。