an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「〇〇牧師先生の✕✕教会」に関する考察

 非常に興味深い、そして重要な問いかけをあるイタリア人クリスチャンが投げかけている。

新約聖書には、十二使徒だけではなく多くの「使徒」や、「預言者」(アガボ、ユダ、シラなど)、「伝道者」(ピリポ)そして「教師」(使徒行伝13:1参照)などの個人的な名前が出てくるが、なぜ一度も「牧師」の名前が記述されていないのだろうか。

 実際、新約聖書の中には、現代のキリスト教会で一般的に使われているような「〇〇牧師」「△△牧師先生」といった、一人の個人の名前と「牧師」という肩書が一緒に記述されている箇所はどこにもない。

 さらに言えば、「牧師」と和訳されている原語【ποιμήν poimēn】は、複数形でエペソ4:11において使用されているのみである。

エペソ4:11

そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。

 一度だけ、である。これは現代のキリスト教会の現状と比較すると、非常に示唆に富む事実である。

 例えば現代では「〇〇牧師先生の✕✕教会」という表現が一般的に使われている。つまりこれは「〇〇牧師が✕✕教会を代表している」という意味合いである。インターネット上にはそのような表現がそれこそ無数にある。しかし新約聖書の中においてそれを見出すことができるだろうか。例えば「テモテ牧師のエペソ教会」「ルカ牧師のピリピ教会」という言い回しがあるだろうか。

 そして現代においてもし「✕✕教会」から「〇〇牧師」がいなくなったらどうなるのだろうか。その地域教会は「無牧教会」「無牧状態」と呼ばれてしまうのである!

 勿論、神の恵みと聖霊の導きを求める地域教会には、肩書とは関係なくその教会の秩序と調和と成長に責任を負う兄弟たちが必ずいるのである。しかしそれは、現代の「肩書偏重主義」や「牧師中心の牧会システム」とは全く異なる土台をもつのである。

マタイ18:19-20

19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。

20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。 

  この御子の言葉は、「教会の成立条件」を提示している。この素晴らしい聖句から、私たちは何か不足感を感じるだろうか。牧師の肩書をもつ人物が浮かび上がってくるだろうか。

 私たちの心の反応によって、私たちの現実的な「教会に関する観念」が明らかになるはずである。