an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

私達は自分の知っていることを語り、また自分の見たことを証ししている

 ヨハネ3:11

よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。 

 わたしたち(複)は自分の知っている(複)ことを語り(複)、自分の見た(複)ことを証ししている(複)のに、あなたがたはわたしたち(複)の証しを受け入れない。

 御子はここで使っている一人称複数形について、いくつかの見解がある。

  1. 尊厳の複数【pluralis majestaticus】
  2. イエス・キリストと洗礼者ヨハネ
  3. イエス・キリストと全ての預言者
  4. 三位一体の神
  5. イエス・キリストと弟子たち
  6. レトリックな複数(ヨハネ3:2のニコデモが使った「私たち」に対する対比か。)

 判断の難しいところである。文脈的に考えると、テーマが御霊による新生と導きなので、ヨルダン川における御子のバプテスマの際に、御霊が御子の上に留まり、公的宣教活動が始まり、洗礼者ヨハネと御子イエス・キリストが神の国の到来と悔い改めについて語っていたことを暗示している可能性もある。

ヨハネ1:32-34

32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。 

33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。 

34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。 

 多くのパリサイびとらや律法学者が、ヨハネの証しにも関わらず、それを信じて洗礼を受けることを拒んだことも、「あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない」という御子の言葉に通じるものがある。

マタイ21:32

というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。 

ルカ20:1-6

1 ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、 

2 イエスに言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください」。 

3 そこで、イエスは答えて言われた、「わたしも、ひと言たずねよう。それに答えてほしい。 

4 ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか」。 

5 彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。 

6 しかし、もし人からだと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたちを石で打つだろう」。 

 ただ冒頭の言葉のすぐ後に、御子が自身のことを「天から下ってきた人の子」として、第一人称単数を使って語り、またその後、洗礼者ヨハネも自分と「天から来る者」御子とを分別して語っているのは意味深い。

ヨハネ3:12-15

12 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。 

13 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。

14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。 

15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。 

ヨハネ3:31-32

31 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。 

32 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。 

 「全てのものの上にある」方が「天から下ってき」、荒野の蛇のように(民数21:7-9参照)十字架の上で自ら命を捧げ、復活の後に、信じる者たちに聖霊を遣わした。

 その聖霊によって土の器である私たちに「天上のこと」を啓示し、その無限の富を共有することを善しとされた。まさに、アメージング・グレースである。

エペソ2:1-10

1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、

2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。 

3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。 

4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、

5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―― 

6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。 

7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。 

8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 

9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 

10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。  

夜、イエスのもとにきて

ヨハネ2:23-25

23 過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。 

24 しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、 

25 また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。 

3:1-15

1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。 

2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。 

3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 

4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。 

5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 

6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 

7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 

8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。 

9 ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。 

10 イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。 

11 よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。 

12 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。

13 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。 

14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。 

15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。 

 「夜イエスのもとにきて

 もしニコデモがユダヤ人の指導者である社会的立場に満たされていたら、 夜中にイエス・キリストのもとに訪問しようとは考えなかっただろう。

 彼がもし律法の教師であること、イスラエルの民を教えることができるほどの知識で満足していたならば、夜中にイエス・キリストのもとに訪問しようとは考えなかっただろう。

 彼がもしエルサレムの神殿において過ぎ越しの祭の戒めを守ったことで満足していたならば、夜中にイエス・キリストのもとに訪問しようとは考えなかっただろう。

 この通常ではありえない時間の訪問は、ニコデモの心の奥底にあった霊的必要性を暗示している。彼は他のパリサイ人や律法学者たちのように、昼間にイエス・キリストの所へ行き、彼の話を聞くこともできたはずである。いや、実際、同僚に紛れて遠巻きからイエス・キリストを観察し、話を聞いていた可能性も高い。

 しかしそのようなコンタクトでは、彼の心の必要は満たされなかったのだろう。彼は個人的に御子イエスと話せる時間を選んだ。

 だからこそ「全ての人を知っておられる」「人の心の中にあることを知っておられる」御子イエスは、一見無礼とも思える方法で、最も本質的・根源的なテーマである「霊によって新しく生まれる絶対的必要」を真っ直ぐ語ったのである。

 先日ある兄弟が、「新しく生まれる必要」について自分の教会の講壇から聞くことがなくなった、と嘆いていた。しかし人の心を知りぬく御子も、人の心の霊的必要も、ニコデモの時代から何も変わっていないはずである。

ブログをはじめて5年

 このブログをはじめて5月20日で5年経過し、6年目に入った。総記事数は1180、PV総数は373300。

 はじめた当初に比べると更新のペースは落ちてきているが、去年の10月にツイッターを始めたことによって、ブログに取り組むスタンスが少し変化したようにも思える。

 ツイッターに関しては、今後も慎重に進めていこうと思っている。

 

 以下は、今年1年間における人気記事ベスト10。

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福音宣教の「舵取り」

使徒9:17-30

17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。

18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、

19 また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、

20 ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。

21 これを聞いた人たちはみな非常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者たちを苦しめた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司長たちのところへひっぱって行くためではなかったか」。

22 しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた。

23 相当の日数がたったころ、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をした。

24 ところが、その陰謀が彼の知るところとなった。彼らはサウロを殺そうとして、夜昼、町の門を見守っていたのである。

25 そこで彼の弟子たちが、夜の間に彼をかごに乗せて、町の城壁づたいにつりおろした。

26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。

27 ところが、バルナバは彼の世話をして使徒たちのところへ連れて行き、途中で主が彼に現れて語りかけたことや、彼がダマスコでイエスの名で大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた。

28 それ以来、彼は使徒たちの仲間に加わり、エルサレムに出入りし、主の名によって大胆に語り、

29 ギリシヤ語を使うユダヤ人たちとしばしば語り合い、また論じ合った。しかし、彼らは彼を殺そうとねらっていた。

30 兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れてくだり、タルソへ送り出した。

使徒13:44-47

44 次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。

45 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。

46 パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。

47 主はわたしたちに、こう命じておられる、『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。

使徒18:4-6

4 パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた。

5 シラスとテモテが、マケドニヤから下ってきてからは、パウロは御言を伝えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちに力強くあかしした。

6 しかし、彼らがこれに反抗してののしり続けたので、パウロは自分の上着を振りはらって、彼らに言った、「あなたがたの血は、あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない。今からわたしは異邦人の方に行く」。

使徒28:23-28

23 そこで、日を定めて、大ぜいの人が、パウロの宿につめかけてきたので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。

24 ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。

25 互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。

26 『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。

27 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。

28 そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。

 パウロが回心と同時に受けるようになった、ユダヤ人の同胞から憎しみや嫉妬、殺意、暴言、不信などが、結果的にキリストの証人となったパウロの使命のための「舵取り」の機能を果たしていたことを知るのは、とても重要だと思う。

 教会を迫害していた者がキリストの恵みによって救われたという自覚があったパウロは、同胞の救いを心から切望していた分、その同胞が示していた否定的・攻撃的反応は、心を深く突き刺すようなものだったのではないだろうか。

 私たちの信仰生活において、回心直後のパウロの行動のように、知識や知恵、経験が伴わない熱意が、必要以上に周囲を刺激してしまうことはよくあると思う。また聖霊の導きに遜る成熟した心をもってしても、やはり周囲の否定的・侮辱的反応は避けることのできないものだろう。

 いずれにせよ、どのような状況においても、御子イエス・キリストの主権によって神の永遠の計画が確実に成就していると認める時、現実に傷ついている私たちの心も、不思議な平安によって包まれ、深いところから湧き出てくる復活の力によって、次の一歩を踏み出すことができるのである。

「穢れた場所」における真の礼拝

ヨハネ20:11-18

11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、 

12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。 

13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。 

14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。 

15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。 

16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。 

17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。 

18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。 

 マグダラのマリヤに関して福音書の記録はそれほど詳しくはないが、御子イエスに「七つの悪霊を追い出してもらった」という記述から、苦悩に満ちた過去を持つ女性だったことは想像することができる。

ルカ8:2-3

2 また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、 

3 ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。 

 またガリラヤ湖西岸の小さな村マグダラの出身だと言われているが、当時、「塔」と言う意味の【migdal / magdal】という場所がいくつかあったことから、確かではない。

 後世の人々がこの女性に「携香女」「亜使徒」「聖女」という称号を与えたり、様々な伝説で色付けたとしても、聖書の記述から伝わってくるこの女性は、苦渋に満ちた過去から御子イエスによって解放され、喜びと感謝の思いを心に秘めた、繊細で素朴な女性にように思える。

 おそらく当時の社会においても最底辺層に属する女性だったのではないだろうか。同行していた御子イエスの母マリヤやヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、ラザロの姉妹であるマルタとマリヤと比べても、注目を浴びるような存在ではなかったかもしれない。

 いずれにせよ、そのマグダラのマリヤが、律法による当時の考え方によれば「最も穢れた場所」の一つである墓場で、復活した御子イエスと個人的に話している記述は、励ましに満ちたエピソードではないかと思う。

 そこは群衆が礼拝を捧げるために集まる神殿の中ではなかった。その神殿に仕えていた祭司たちから「神聖なる場所」と認められていた場所でもなかった。明け方の誰もいない「穢れた場所」であった。

 そして彼女が復活した御子を認めた時に口にした言葉は、たった一言だった。

マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。

 それは美しい旋律を伴う讃美歌でも、麗しい言葉によって飾られた祈りでもなかった。しかし、そのただ一言の「(私の)先生」という魂の叫びによって、マグダラのマリヤの心は主イエスと再び結び付けられたのである。

 御子イエスが地上宣教において、社会から疎外されて生きていた一人の女性に、「真の礼拝者たちが霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」と語った時、墓場で御子に出会うことになるマグダラのマリヤのことも含まれていたと考えると、たとえ私たちが今、望んでいない場所や状況に一人取り残されていたとしても、生ける主なる神との深い交わりの時をもつことが許されている、という感謝と喜びに満たされる。

ヨハネ4:21-24

21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。 

22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 

23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 

24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 

 

「セム、ハム、ヤぺテ」についての考察

創世記の系図 : 村上 密 Blog

また、書いてある順が生まれた順とも限らない。アブラハムは前後の記述から三人の中では末の子である。また、ノアの家庭でもハムは末の子である。3人名前が書かれる時、それは重要順である。例えば、モーセとアロンとミリアム、ペテロとヨハネとヤコブのようにである。聖書を読むとき、自分の概念で読み込むと誤解が生じる場合がある。文脈を理解の手がかりとして読む習慣を身につければ、読むから理解に進める。

(一部引用終わり)

「ノアの家庭でもハムは末の子である。3人名前が書かれる時、それは重要順である。」

 創世記や歴代誌の記述では、常に「セム、ハム、ヤぺテ」の順番で記されている。

5:32

ノアは五百歳になって、セム、ハム、ヤペテを生んだ。 

6:9-10

9 ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。 

10 ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。  

7:13

その同じ日に、ノアと、ノアの子セム、ハム、ヤペテと、ノアの妻と、その子らの三人の妻とは共に箱舟にはいった。 

9:18

箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。  

10:1;2;6;21-22

1 ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに子が生れた。 

 

2 ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラスであった。 

6 ハムの子孫はクシ、ミツライム、プテ、カナンであった。 

 

21 セムにも子が生れた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。

22 セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクサデ、ルデ、アラムであった。 

歴上1:1-4

1 アダム、セツ、エノス、 

2 ケナン、マハラレル、ヤレド、 

3 エノク、メトセラ、ラメク、 

4 ノア、セム、ハム、ヤペテ。 

 「ハムが三人兄弟の末の子である」という説は、創世記9:24の記述による。

創世記9:18-27

18 箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。

19 この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。

20 さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、 

21 彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

22 カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。 

23 セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。 

24 やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、 

25 彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。 

26 また言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。 

27 神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。 

 聖書は「酔って天幕の中で裸になった父親を見、それを兄弟たちに告げた」ハムの行為によって、おそらく生まれたばかりかまだ子供であったはずの息子カナンがなぜ呪われなければいけなかったか、その理由を明らかにしていない。祖父ノアが泥酔して裸になったことやそれを見た父親ハムの行為の責任を、なぜ息子カナンが負わなければならなかったのだろうか。

 いずれにせよ、ノアは酔いから醒めた時、セムとヤペテのことを祝福し、ハムの子カナンのことを呪った。しかしもし本当に「セム、ハム、ヤペテ」の名前の序列が「重要順」であるならば、なぜ「セム、ヤペテ、ハム」とならなかったのだろうか。セムと一緒に称賛に値する行為をしたはずヤペテが、その息子が呪われるほどの行為をしたハムよりも「重要でない」と評価される基準とは一体何であろうか。

 ただ9:24の「末の子」と訳されている原語は、相対最上級の「最も小さい」とも、比較級として「より小さい」とも訳せる言葉であり、KJVなどは他の多くのバージョンが「youngest son」と訳しているのに対して「younger son」と訳している。文語訳は「若き子」としている。

 もう一つの説は「年少の息子」として解釈しているが、それを呪いの対象として言及されているカナンと考える見解もある。10:6にあるようにカナンが「末の子」として記録されているからである(ただ村上牧師の見解との一貫性を求めるなら、この場合も年齢順ではなく、「重要順」である可能性も否定できないはずである。)しかし原文ではノアを主語とした文節において「彼の小さい息子」としているので、ノアの息子ハムのことを指しているはずである。

 興味深い詳細がある。23節ではセムとヤペテが父親の天幕の中で共に行動しているのだが、「(着物を)取る」と「(肩に)かける」という二つの動詞が単数形であることである。

9:23

セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。 

 つまりセムが着物を取り、 自分の肩にかけ、ヤペテと共に後ろ向きに歩み寄って、一緒に父ノアの裸を覆い(複数形)、二人共父親の裸を見なかったことになる。要するにセムが率先して正しい行動を起こし、ヤペテがそれに従ったというイメージだろう。

 ノアが「神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。」と祝福したのは、セムのイニシアチブに従ったその行動に見合ったものだと言える。

 霊的な適用するならば、これは父の栄光のために今も働いておられる長子なる御子イエスと、聖霊によってその導きに従う私たち信仰者との関係を示している。

マタイ11:29

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 

ヨハネ13:13-15

13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。 

14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。

15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。  

ヨハネ15:14-15

14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 

15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。 

へブル2:11-12

11 実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。 

12 すなわち、「わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう」と言い、 

Ⅰペテロ2:21

あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。  

 

「アブラハム末の子説」の検証

創世記の系図


創世記5章11章には系図が出てくる。アダム家庭にはカイン、アベル、セツ、ノア家庭にはセム、ハム、ヤぺテ、テラ家庭にはアブラハム、ナホル、ハランの息子たちが出てくる。家庭が書かれてあるところでは息子たちが書かれ、そうではない場合は、息子、娘たちを生んだと書いてある。当然、アダム、ノア、テラに娘たちがいると思われる。証明できるのは、アブラムの妻はサライで腹違いの妹である。それから、カインがエデンから追放されたとき、ノデの地に住み、妻との間にエノクを産んだ。この妻は妹と思われる。3家庭に息子たちが書かれているが、必ずしも息子たちだけではないことを知っておく必要がある。なぜなら、多産に時代にそれも息子だけ産むとは限らないからである。また、書いてある順が生まれた順とも限らない。アブラハムは前後の記述から三人の中では末の子である。また、ノアの家庭でもハムは末の子である。3人名前が書かれる時、それは重要順である。例えば、モーセとアロンとミリアム、ペテロとヨハネとヤコブのようにである。聖書を読むとき、自分の概念で読み込むと誤解が生じる場合がある。文脈を理解の手がかりとして読む習慣を身につければ、読むから理解に進める。  

(引用終わり)

 

 「また、書いてある順が生まれた順とも限らない。アブラハムは前後の記述から三人の中では末の子である。」

 つまり、この主張によれば、テラは七十歳になって「ハラン、ナホル、アブラハム」の順番で子を生んだが、聖霊はその子らの「重要性」に従って順番を逆にしたことになる。

 この主張の聖書の根拠を検証してみた。

創世記11:26-32

26 テラは七十歳になってアブラム、ナホルおよびハランを生んだ。 

27 テラの系図は次のとおりである。テラはアブラム、ナホルおよびハランを生み、ハランはロトを生んだ。 

28 ハランは父テラにさきだって、その生れた地、カルデヤのウルで死んだ。 

29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライといい、ナホルの妻の名はミルカといってハランの娘である。ハランはミルカの父、またイスカの父である。 

30 サライはうまずめで、子がなかった。 

31 テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。 

32 テラの年は二百五歳であった。テラはハランで死んだ。 

  確かにハランは、アブラハムがカナンの地に向かって旅立つ前、カルデヤのウルで死んだが、その時点で息子ロトや娘ミルカとイスカがいたわけだから、アブラハムよりも早く結婚していたと推測することもできる。

 また次男(?)のナホルが、ハランの娘ミルカを妻として迎えていることからも、同じ推測できる。

創世記11:29

アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライといい、ナホルの妻の名はミルカといってハランの娘である。ハランはミルカの父、またイスカの父である。 

 さらにアブラハムの妻サラが10歳下の異母妹だったことと合わせて考えると、サラの母親は、ハランの母親でもあり、そして何かの理由で先に亡くなり、テラは二番目の妻を迎えた、という可能性もある。

創世記20:12

また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になったのです。 

 ヨシュアがテラのことを「アブラハムの父、ナホルの父」と呼び、ハランの名を挙げていないのは、異なる母親によるものなのだろうか。

ヨシュア24:2

そしてヨシュアはすべての民に言った、「イスラエルの神、主は、こう仰せられる、『あなたがたの先祖たち、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていたが、 

 いずれにせよ、上述だけの根拠では、「アブラハムが末の子である」と断言するのは困難ではないかと思う。

 ちなみに口語訳は、ロトの事を「(アブラハムの)弟の子」として解釈して翻訳している。

創世記12:5

アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。 

 「アブラハム末の子説」は、おそらく使徒7:4のステパノの言及と創世記の言及との調和を求める過程で生まれたのではないかと思える。確かにアブラハムが末の子であったなら、テラが205歳で死んだ後にカナンの地に向かって旅立ったとしても、矛盾が生れない範囲だからである。

使徒7:4

そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、

 ステパノの説教に関する考察はこちら。

 アブラハムの故郷に関して、興味深い検証記事があったので、参考までに。

 

 「文脈を理解の手がかりとして読む習慣を身につけ」ても、時には明確なかたちで「読むから理解に」進み得ないこともある。明らかに啓示されている中心的なテーマには確信をもち、難解で副次的なテーマには寛容な心をもつ。それぐらいのスタンスで聖書と向き合うことが大切なのではないだろうかと思う。自戒を込めて。