an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

御子イエス・キリストという名の充溢(4)

ルカ8:40-48

40 イエスが帰ってこられると、群衆は喜び迎えた。みんながイエスを待ちうけていたのである。 

41 するとそこに、ヤイロという名の人がきた。この人は会堂司であった。イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った。 

42 彼に十二歳ばかりになるひとり娘があったが、死にかけていた。ところが、イエスが出て行かれる途中、群衆が押し迫ってきた。

43 ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。

44 この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。

45 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。

46 しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。 

47 女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。 

48 そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ。」

 ここで主イエスは「私は、私を触った者に癒しの力を注ぎ出した」とは語っていない。御子のうちに満ち満ちていた力が出て行ったのを感じた、というのである。当然、御子はこの貧しい女性の必要を完全に知っておられたはずだが、御子の言葉には、まるで彼の意思を越えて力がこの女性に注ぎ出たような印象である。

 確かに御子は大変緊急な事態にいた。会堂司のヤイロの娘が死にかけており、一刻の猶予も許されない状態だった。普通の人間だったら、その緊迫した事態を対処するために全て意識を注ぎ、他の事には気が回らなくなるところである。

 しかし無限の神の恵みは、人間が置かれている状況の質によって変化することはない。つまり状況が切迫しているからそこに集中して注がれ、他のところには制限される、というような性質のものではないのである。神の恵みは御子の内で途切れることなく充溢し、御子を通して絶えず「外へ向かって」「低きに向かって」豊かに溢れ出ている、ということである。

ヨハネ1:14、16

14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 

16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。 

 そして、もしこのエピソードの長血に苦しんでいた女性のように、御子に対して心を開き、助けを求める手を差し伸ばすのなら、誰に対しても、どのような状況においても、その恵みの力は豊かに降り注ぐことを示している。

 溢れ出る泉から水を汲み飲んだ人は、決して「自分が地中から水を汲みだしたから飲めたのだ」とは考えないだろう。彼はただ単に、溢れている水にコップを差しだし、その水を飲んだだけである。同じように、私達が信仰によって神の祝福を「引っ張り出す」のではない。すでに豊に溢れ出している祝福を、信仰によって認め、受け取るのである。

 また「私より神様の愛や力を必要としている人はたくさんいるから、まずその人たちのために祈ります」という、一見とても謙遜で思いやりのある考え方をする人がいるが、御子のうちに充溢する力は、そのような「人間的な配慮」が全く必要ない程、豊かであり、私達が「それほど重大ではない」と自分で勝手に判断する状況の本質を癒し、救うことができるのである。

御子イエス・キリストという名の充溢(3)

ヨハネ1:4-5;9

4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 

5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 

 改めて考えみると、「光」という実体は「恵みと真理に満ち満ちた御子イエス」を表現するのに最も相応しいものではないだろうか。例えば光源としての太陽は、自ら光は放ち続けている。地球がどの位置にいようと、また自転の動きとは関係なく、光を周囲に放ち、誰もそれをとどめることはできない。まさに自らの内側から溢れ出すように光を放射し続けているのである。

 勿論、全ての物質的な光源はやがて尽き果てる時が来るだろうが、霊なる光は永遠である。なぜなら神のいのちそのものであるからだ。

1ヨハネ1:5

わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。 

1テモテ6:16

神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。 

黙示録22:5

夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

 御子イエス・キリストこそ、「すべての人を照すまことの光」であり、「人の光」そして「世の光」である。この光が照らすことができない程、光源から「遠くにいる」人間は存在しない。たとえその魂が絶望の暗闇の中に閉じ込められていたとしても、その光は照らすことができるのである。

光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

 あまりにも長い時を暗闇の中で過ごしたから、光は弱ってしまっただろうか。否、キリストの充溢から放たれる光は、弱ることなく、いまでもその魂を照らし続けているのである。

Ⅱコリント4:6

「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。 

エペソ5:13-14

13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。 

14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。 

ヨハネ8:12

イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。 

御子イエス・キリストという名の充溢(2)

ヨハネ1:14;18

14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。  

18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。 

 「肉体となった言」は、「父なる神のひとり子としての栄光」が信仰によって罪人の目にも見えるように示されたものであった。そしてその「父なる神のひとり子として栄光」は、神の栄光そのものであった。

 ヨハネ14:6c

わたしを見た者は、父を見たのである。

 その栄光は、神自身が全ての源泉であるように、恵みと真理に満ち溢れている。そして以下の聖句は、まさに全ての人間に圧倒的に欠けている要素、そして全ての人間が必要としている要素が、栄光に満ちた御子イエス・キリストその方であることを啓示している。

ローマ3:23

(前田訳)

すべての人は罪を犯したため、神の栄光を欠いています

 

(塚本訳)

なぜか。すべての人が罪を犯したため、いまだれ一人、(かつて持っていた)神の栄光をもたない

 そう、私達が本質的に必要としているのは、もう少しの富や成功、健康、幸せというよりも、御子イエスご自身が聖霊によって心に宿り、私達の虚無を満たしてくださることである。

 そして一人の人間の心に栄光の御子イエス・キリストが宿るとき、彼の心は完全に満たされるのである。

コロサイ2:9-10a

9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、

10a そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。

 

御子イエス・キリストという名の充溢(1)

ヨハネ1:1-18

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

2 この言は初めに神と共にあった。

3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。

7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。

8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。

9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。

10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。

11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。

12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

15 ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。

16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。

17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。

18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

 「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」

 「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。」

 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」

 永遠で無限の霊である神が「ロゴス ことば」として、人間が認識し得るように自らを啓示していた。その啓示の完全なかたちとして、「言は肉体となり」、父なる神の独り子としてこの世に顕れた。

 彼は見えない神の完全な顕れであり、「ただ」独り子なる神「だけ」が、見ることも触れることもできない神を顕わしたのである。

 その「肉体となった言」は、「恵みと真理とに満ちている」方である。そして彼の「【πληρώματος plērōmatos】フルネス、充溢(満ち溢れること。英語のfullnessよりもさらにアクティブで動的なニュアンスである。)」によって、信じる者すべて(「わたしたち」は14節から考えると一義的には御子の地上公生涯において彼に従っていた人々のことを指していると思われるが、福音的には御子の恵みを受けた信仰者全てに適用できるだろう)が「その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた」のである。

 ここには「イエス・キリストの充溢」が観念的で不活性なものでなく、聖霊の働きによって力強く信仰者に働きかけるものであることが啓示されている。

エペソ1:23

(口語訳)
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

(岩波訳)
この教会はキリストの体、すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である。

(YLT)
which is his body, the fulness of Him who is filling the all in all,

 だからこそ使徒パウロは、以下のように信徒のために祈っているのである。

エペソ3:16-19

16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、

17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、

18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、

19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。

 

 (2)へ続く

サラの「笑い」とイシマエルの「からかい」

創世記21:1-11(新改訳)

1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。 

2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。 

4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。 

5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。 

6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」 

7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」 

8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。 

9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。

10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」 

11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。

 6節の「笑う」と和訳されている原語【יִֽצְחַק־  yiṣ·ḥaq-】は、9節の「からかう」【מְצַחֵֽק mə·ṣa·ḥêq】と共通の語根をもつ。一方が主なる神の約束の成就から生れる「笑い」つまり「喜び」を表しているのに対して、もう一方は「からかい、あざけり」のニュアンスをもち、偶像崇拝(出エジ32:6)や姦淫(創世39:17)、殺害(サムエル下2:14)などの状況に使われている動詞である。だから子供の無邪気ないたずらというよりも、「はしための子イシマエル」による「正妻の跡取り息子イサク」に対する妬みや憎悪を含む行為だったことが暗示されている。

 実際、聖霊の霊感を受けた使徒パウロは、このイシマエルとイサクのエピソードを引用しながら、「その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害した」と、「迫害」という概念を適用している。

ガラテヤ4:21-29

21 律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。

22 そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。 

23 女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。 

24 さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。 

25 ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。 

26 しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす。 

27 すなわち、こう書いてある、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」。 

28 兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。 

29 しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。

 この創世記のエピソードは、非常にリアルな教えを示している。信仰者が御言葉の約束の成就によって受ける喜びや、聖霊の実としての喜び、試練や困難の中にあっても静かに湧き上がる深い喜びのすぐ近く(それは同じ環境、すなわち教会や家庭であるかもしれないし、また私達自身の心の中かもしれない)には、地上的成功や実現から派生する喜びや、肉から来る喜び、さらに無邪気なベールで覆われた妬みや憎悪、悪意などが働くのである。

 使徒パウロはその霊的現実を念頭において、様々な書簡において、「御霊の実と肉の働き」「御霊の欲するところと肉の欲するところ」などを対比させて、御霊によって歩き、イエス・キリストを真の喜びとすることを命じている。

ガラテヤ5:16―26

16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。

17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。

18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。 

19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、

20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 

21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 

23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 

24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。 

25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。 

26 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。

ピリピ3:18-20

18 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。 

19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。 

20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。 

 ちなみに旧約聖書のギリシャ語LXX訳では、9節の「からかう」は、【παίζω paizō】が使われている。

天からの声(3)聞き違い

ヨハネ12:27-29

27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。

28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。

29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。

 確かに聖霊は福音書記者ヨハネに霊感を与え、天からの声がどのような内容であったかを記録するよう導いた。ヨハネはヤコブやペテロと共に山上の変容の時にも天からの声を聞いた経験があったから、もしかするとその声を認識しやすかったのかもしれない。

 しかし同じ場所にいた群衆は、音は聴くことができたようだが、その内容を全く理解することができなかった。

すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。

 音としては何か超自然的なものであると認識できても、はっきりとしたメッセージを理解できない。これは、罪によって生ける神との霊的交わりを失い、その感受性が著しく鈍化してしまった人間の性質を示している。

ローマ1:18-20

18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。 

19 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。

20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。 

 全ての被造物、つまり宇宙やその中にある天体、そして地球とその上にある全てのものを観察することによって、神の永遠の力と神性は明らかに認められるはずだが、人間はそれを認めようとしない、と言っているのである。

 詩篇記者ダビデは、その被造物の「神からの声なき使信」について書き残している。

詩篇19:1-4b

1 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。 

2 この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。

3 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、 

4b その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。

 しかし冒頭に引用したエピソードでは、神自身が介入した超自然的なメッセージさえも、群衆は理解しなかった。それは意思的に聞こうとしない選択ではなかったかもしれないが、神からのメッセージを受け取らない、という意味では同じことであろう。

 そして群衆の聞き違いの悲劇の際たるものは、御子イエスが十字架の上で叫んだ言葉を人々が全く理解しなかったエピソードであろう。

マタイ27:46-47

46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 

47 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。 

 これは目で見ることができない神の「天からの声」ではなかった。その神が人となり、肉体を持って人々の間に顕れ、その「神ー人」なるイエスが群衆のすぐ目の前で十字架に架けられ、メシアの受難の預言成就として、人々に読み知られていた詩篇22篇の冒頭句を引用して大声で叫んだのに、彼らはそれを完全に聞き違えたのである。

すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、

「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。

 このような聖書のエピソードを読むと、現在私達に聖書が与えられ、それを個人的に、または教会の交わりの中で読むとき、聖霊が語りかけてくださることが約束されているのは、計り知れない神の憐みと愛の証明だと思う。

 だからこそ、その聖書を通して主なる神が御声を聞かせてくださる時、私達は十分に気を付けなければならないのだろう。

へブル3:12-19

12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。 
Heb 3:13  あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。 

14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

15 それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。 

16 すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。

17 また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。

18 また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。 

19 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。

4:1-2

1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。 

2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 

 恵みの時代にあって、主なる神は誰も到達することができない高みから、高尚で難解な神学書を地に投げ落としているのではない。人間の言葉で、しかも世界中の各地の言葉に翻訳された言葉で書かれた聖書を通して、聖霊の導きによって、低きに悩み苦しむ私達の心の場所まで来て、語りかけてくださるのである。

天からの声(2)「これに聞け」

マタイ17:1-6

1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。

3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。

4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。

5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。

6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。

 「これに聞け」。この天からの声は、父なる神によるもので、「これ」とは勿論、御子イエスのことを指している。

 目に見えない、人間の言語表現手段では表現しきれない、霊なる全知全能の父なる神が、人間、しかも恐怖のあまり何が起きていたか理解していなかった人間たち(マルコ9:6参照)に向かって、彼らが認識しうる言葉で話しかけている。しかもご自身が語り続けることもできたはずなのに、「わたしに聞け」ではなく「御子に聞け」と語りかけているのである。

 しかし御子自身も、父親から離れて好き勝手していた放蕩息子のように、地上において適当に自分の言いたいことを主張していたのでは決してなかった。

ヨハネ12:49-50

49 わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。 

50 わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。 

 また御子の復活の後、遣わされた聖霊も、御子の語ることを聞き、それを人々に語る務めをもっていることが啓示されている。

ヨハネ16:13-15

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 

14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。 

15 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。

 御子は父なる神の語ることを聞き、それを地上で語った。それゆえ、天なる父は御子に対する絶対的信頼のもとに、天から「御子のことを聞け」と命じた。そして御子の復活後に信じる者の心に遣わされた聖霊も、父なる神の右で栄光を受けた御子から聞き、それを語ることが約束されている。

 この三位一体の神における「聞く」という姿勢を見ると、私達にとって「御子に聞く」「御子のことを聞く」という姿勢が如何に重要で本質的であるかが、はっきりと理解できる。

ローマ10:17

したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 

 御子の足元で御言葉を聞いていたマリアのように、また御子だけが永遠のいのちの言葉を持っていると宣言したペテロのように、祈りの中で御子の声を待ち望もう。

ルカ10:38-42

38 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 

39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 

40 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 

41 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 

42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。 

ヨハネ6:68-69

68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。 

69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。 

 

(3)へ続く