an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

御子イエス・キリストという名の充溢(3)

ヨハネ1:4-5;9

4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 

5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 

 改めて考えみると、「光」という実体は「恵みと真理に満ち満ちた御子イエス」を表現するのに最も相応しいものではないだろうか。例えば光源としての太陽は、自ら光は放ち続けている。地球がどの位置にいようと、また自転の動きとは関係なく、光を周囲に放ち、誰もそれをとどめることはできない。まさに自らの内側から溢れ出すように光を放射し続けているのである。

 勿論、全ての物質的な光源はやがて尽き果てる時が来るだろうが、霊なる光は永遠である。なぜなら神のいのちそのものであるからだ。

1ヨハネ1:5

わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。 

1テモテ6:16

神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。 

黙示録22:5

夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

 御子イエス・キリストこそ、「すべての人を照すまことの光」であり、「人の光」そして「世の光」である。この光が照らすことができない程、光源から「遠くにいる」人間は存在しない。たとえその魂が絶望の暗闇の中に閉じ込められていたとしても、その光は照らすことができるのである。

光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

 あまりにも長い時を暗闇の中で過ごしたから、光は弱ってしまっただろうか。否、キリストの充溢から放たれる光は、弱ることなく、いまでもその魂を照らし続けているのである。

Ⅱコリント4:6

「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。 

エペソ5:13-14

13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。 

14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。 

ヨハネ8:12

イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。