an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

来臨の兆候と人間の弱さ

マタイ24:36-44

36 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。

37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。

38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。

39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。

40 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。

41 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。

42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。

43 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。

44 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。 

ルカ21:34-36

34 あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。

35 その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。

36 これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。 

「あなたがたも用意していなさい」

「よく注意していなさい」

「絶えず目を覚まして祈っていなさい」

 御子のこれらの命令は、私達が「食い、飲み、めとり、とつぎなどしている」時、つまりごく通常の生活を営んでいる時に、いつ来るかわからない主イエスの来臨のために備えるためには、継続的な注意と祈りが必要であることを示している。なぜなら、言うまでもないことだが、私達の性質は不断の注意や祈りとは全く異なることに魅かれてしまう傾向があるからである。

 確かに主なる神は私達人間の性質をよくご存じである。私達はまるで今生きているこの地上の生活が、明日も明後日も、そして何年も続くと思い込み、「さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」と心の中で自分を祝福し、「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と将来の計画を立て、さらに「主人の帰りは遅い」「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と思いがちである。

ルカ12:19

そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。

ヤコブ4:13-15

13 よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。

14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。

15 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。 

ルカ12:45

しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、 

Ⅱぺテロ3:3ー4

3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、 

4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。 

 とても意味深いのは、冒頭のマタイの聖句の箇所の前に、御子イエスは来臨の兆候について多くの啓示し、「すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」と言っていることである。

マタイ24:32-33

32 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。

33 そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 

 つまりある意味、「人がイチジクの木の枝に葉が出てくることによって夏が近いことがわかり」、「家の主人が強盗の気配を察し、目をさましていて、自分の家に押し入ることを警戒する」ように、これらの兆候を実際に見ることによって、「人の子(御子イエスのこと)が戸口まで近づいている」ことを知ることができる、と言っているのにもかかわらず、「あなたがたも用意していなさい」「よく注意していなさい」「絶えず目を覚まして祈っていなさい」と繰り返し警告しているのである。

 それは御子の来臨の兆候が全くないからではなく、多くの兆候があるにもかかわらず、「放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍って」、霊的に鈍感になってしまう危険性を示しており、また今も働き、大患難期には歯止めなく働くことになる惑わしの霊のゆえではないだろうか。

Ⅱテサロニケ2:9-12

9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

11 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、

12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。

 信仰の祈りを通して御子との交わりを途切れないようにすることで、「これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができる」という教えは、弱い私達にとって大きな慰めであり、希望の光である。

ルカ21:36

これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」

【parousia】と「キリストの地上来臨」の関連性に関する検証

第二テサロニケ2:1-12

1 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。 

2 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。

3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。

4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。

5 わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。

6 そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。

7 不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。

8 その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。

9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

11 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、 

12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。 

1 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。 

8 その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。

 ここでは、主イエス・キリストが地上を裁くために来臨することを示している。実際、「不法の者」「滅びの子」「反キリスト」つまり黙示録に啓示されている「獣」は、御子の地上来臨によって裁かれることになると啓示されている。

黙示録19:19-20

19 なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。

20 しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。 

 「来臨」と和訳されている原語【παρουσία parousia】が「臨在」という身体的様相を含むニュアンスをもつことから、そのニュアンスを特別視し、使徒パウロがこの単語をキリストの地上来臨を指すために特定的な使い方をしているように主張する説がある。

 しかし実際には同じ目的のために別の単語【ἀποκάλυψις apokalupsis】も使われているのである。

Ⅱテサロニケ1:7

それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる(apokalupsis)時に実現する。

 また「滅びの子」「不法の者」つまり反キリストが肉体をもってこの世の顕れることに関して、使徒パウロは【apokaluptō】と【parousia】の両方の単語を使っている。

3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れる(apokaluphthE)にちがいない。 

6 そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れる(apokaluphthEnai)ように、いま彼を阻止しているものがある。 

8 その時になると、不法の者が現れる(apokaluphthEsetai)。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。 

9 不法の者が来る(parousia)のは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

 つまり使徒パウロは【parousia】がもつ「臨在」というニュアンスを強調して使い分けているわけではなく、【apokaluptō】と同じ意味で使っている以上、【parousia】は「教会携挙のための空中再臨」か「裁きのための地上来臨」かを識別する根拠とはなり得ないことがわかる。

 また興味深いことに、使徒パウロは「臨在」という意味をもつ別の単語【πρόσωπον prosōpon】(和訳では「御顔」)を同じ文脈な中で使っていることである。

Ⅱテサロニケ1:9

そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。 

 そして黙示録においては、まだ裁きのための御子の地上再臨が実現していないにもかかわらず、地上にいる人々が天の御座におられる神の臨在に恐れおののいているので、「臨在のニュアンスをもつ【parousia】は、キリストの地上来臨を示している」と限定する説は根拠がないと言える。

黙示録6:16-17

16 そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。

17 御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。

ダニエル書12章の預言と大患難期

ダニエル12:1-13

1 その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。

2 また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。 

3 賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。

4 ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」。

5 そこで、われダニエルが見ていると、ほかにまたふたりの者があって、ひとりは川のこなたの岸に、ひとりは川のかなたの岸に立っていた。

6 わたしは、かの亜麻布を着て川の水の上にいる人にむかって言った、「この異常なできごとは、いつになって終るでしょうか」と。

7 かの亜麻布を着て、川の水の上にいた人が、天に向かって、その右の手と左の手をあげ、永遠に生ける者をさして誓い、それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民を打ち砕く力が消え去る時に、これらの事はみな成就するだろうと言うのを、わたしは聞いた。

8 わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった。わたしは言った、「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」。

9 彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。

10 多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。

11 常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。

12 待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです。

13 しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」。

 預言者ダニエルは二つの質問をしている。

  • 「この異常なできごとは、いつになって終るでしょうか」
  • 「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」(新改訳「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」 )

「国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時」が「いつ」終わるのか、「どう」終わるのか、を質問しているのである。ここで「国」と和訳されている原語【גּוֹי gôy】は、イスラエルではなく異邦人の国のことを指しているので、その患難はイスラエルだけでなく全世界に及ぶ規模のもの、つまり大患難期について語っている。『マタイによる福音書』に書き記されている御子の言葉は、御子がダニエル書の12章の預言について語っていたことがわかる。

マタイ24:15-21

15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、

16 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。

17 屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。

18 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。

19 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。

20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。

21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。

22 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。 

 このマタイに書かれている「聖なる場所」「ユダヤにいる人々」「安息日」というディティールと、ダニエルに対する「あなたの民」という言葉から考えると、22節の「選民」とは信仰者全般というより、イスラエルの民のことを示していると思われる。

 そして「いつになって終わるのか」という質問に対して、「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民を打ち砕く力が消え去る時に、これらの事はみな成就するだろう」と答えている。つまり大患難期後半の三年半の最後にイスラエルの民を迫害する獣が裁かれ、サタンが縛られる時のことを示している。

 興味深いのは、ダニエルの二番目の質問「この終わりはどうなるでしょうか」にはダイレクトには答えず、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。」と答え、さらに「常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている」と回答している点である。

 ここでの「時(単数)」の連体修飾節は、「常供の燔祭が取り除かれる」と「荒す憎むべきものが立てられる」の両方であるから、二つは時を隔てた別々の事象ではなく、一連の出来事であることを意味する。

 「終わり」が「常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時」から42か月(黙示録13:5参照)より若干長い1290日なのは、その「終わり」が「荒らす憎むべき者の終わり」、つまり反キリストの裁きについてではなく、サタンの捕囚の時を指しているからではないかと思う。

「二人の証人の活動期間」と「獣の活動期間」

黙示録11:1-13

1 それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。 

2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。

3 そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。

7 そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。

8 彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。 

9 いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。

10 地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。

11 三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。

12 その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。 

13 この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。

 3節には明確に、二人の証人がエルサレムにおいて預言活動する期間が「1260日」つまり約3年半であると記されている。(この強烈なアイデンティティーをもった二人の証人の活動を開始するタイミングについては、聖書に明記されていないことは意味深い。)

わたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう

 その活動期間が神の許可、つまり神の御心と導きによるものであることは、「許そう」という表現からだけでなく、その活動が完了してから、彼らが「底知れぬ所からのぼって来る獣」によって殺されたことからも理解できる。つまり神が定めていた1260日という期間は、誰にも中断されず完了するのである。

そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。

 神の任務を終えた二人の証人を殺すことになる「獣」については、13章に詳細が啓示されている。

黙示録13:1-8

1 (12:18) (そして、海の砂の上に立った。)

わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。

2 わたしの見たこの獣はひょうに似ており、その足はくまの足のようで、その口はししの口のようであった。龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた。

3 その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった。そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い、

4 また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」。

5 この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。

6 そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。

7 そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。 

 この海から上がってくる獣は反キリストであり、この者に権威を与える龍はサタン、悪魔である。

黙示録20:2

彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、 

 サタンは反キリストに「四十二か月」つまり3年半の活動する時間を授けることになる。

この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。

 そして『黙示録』の中には、この「底知れぬ所からのぼって来る」「海から上ってくる」時期より前にこの獣の顕現に関する記述がないことから(第一の封印が解かれる時に出現する白い馬に乗った者に関しては、解釈の分かれるところである)、反キリストがこの世に現れ、その邪悪な活動を地上においてするのは、二人の証人の活動期間の3年半が完了した後の、次の3年半の期間であることがわかる。

 そして反キリストの活動期間は、白い馬に乗って顕れる「王なる王、主なる主」である御子イエス・キリストの裁きによって終了する。

黙示録19:19-20

19 なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。 

20 しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。 

 ダニエル書の「荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている」というのは、サタンの捕囚の時を指し、千三百三十五日は義人が待ち望む「第一の復活」の時を指しているのかもしれない。

ダニエル12:11-13

11 常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。

12 待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです

13 しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」。

黙示録20:1-6

1 またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。

2 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、

3 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。

4 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。

5 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。

6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。 

  もう一つ興味深い点は、「二人の証人の活動期間」が完了し、「獣の活動期間」が始まった段階で、神の御前にいる二十四人の長老が、「すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時」の到来を告げていることである。

黙示録11:15-18

15 第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。

16 そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、

17 「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。

18 諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」。 

 

エリクソン氏の「再臨の切迫性」に関する意見の検証

 M・J・エリクソン氏は『キリスト教神学 第4巻』の中で「再臨の切迫性」というテーマに関して、大患難前携挙説の論拠を列挙した後、以下のような意見を記している。

しかしながら、よく調べてみると、これらの議論に十分な説得力はない。ご自身が来ることに気をつけているようにというキリストの命令や、思いがけないときにはっきりした兆候もなく来るという警告は、それが切迫していることを必ず意味するのだろうか。すでに約2千年という期間が間に存在している。正確な時も知らないが、今も知っていることは、まだであるということである。いつ起こるかわからないからといって、ある一定の時には起こらないとわかっているということにはならない。

 さらにイエスの言明は、それが発表されたとき、再臨が切迫していることを意味していなかった。イエスは少なくとも三つのたとえ話(遠い国に言った身分の高い人―ルカ19:11-27、賢い娘と愚かな娘―マタイ25:5、タラントー25:19)で、遅れがあることを示した。同じように、しもべのたとえ(マタイ24:45-51)では、しもべたちが自分の品性を証明するには時間が必要である。加えて、再臨の前にはある出来事が起こっていなければならなかった。たとえば、ペテロが歳を取って弱くなり(ヨハネ21:18)、福音は全世界に宣べ伝えられ(マタイ24:14)、神殿は破壊される(24:2)。もしこれらの出来事が、イエスが戻ってくる前に起こっていなければならなかったのなら、再臨が直ちに起こっていたはずはない。イエスが「目をさましていなさい」、「その時をあなたがたは知らない」と言ったことは、ある出来事が起こるのを許すために遅れがあるということと矛盾しない。

 これは切迫性を語ることが不適切だと言っているのではない。ただし、切迫しているのは、再臨という一つの出来事というより、それを取り巻く出来事の複合体のほうである。この複合体が切迫している(imminent)のであり、再臨そのものは「近い将来起こる」(”impending” )、というべきなのであろう。

 

(『キリスト教神学 第4巻』ミラード・J・エリクソン著 いのちのことば社 402頁から引用)

 それではエリクソン氏の意見には、論駁の余地のないほどに十分な説得力があると言えるだろうか。「正確な時も知らないが、今も知っていることは、まだであるということである」とあるが、「まだ」起こっていないからと言って、「次の瞬間に起こらない」と言えるのだろうか。御子の譬えを使うならば、大洪水がそれまで一度も起きていなかったからと言って、義の伝道者ノアは当時の人々に「まだ大洪水は起こらない」と語ったのだろうか。今まで泥棒に入られたことがないからといって、「今しばらくは入らないだろう」と言えるのだろうか。

 さらにエリクソン氏が「再臨の前にはある出来事が起こっていなければならなかった」と言って列挙している三つの出来事のうち、少なくとも二つは大分前にすでに起こっているのである!使徒ペテロは1世紀に殉教し、エルサレムの神殿は西暦70年に完全に破壊された。唯一、御子イエスの再臨が「遅れている」(それは神にとっての「遅れ」ではない)としたら、もう一つの出来事「福音は全世界に宣べ伝えられなければならない」だけが理由である。

 実際、聖書にはこう書かれている。

Ⅱペテロ3:3-9

3  まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 

4  次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」 

5  こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、 

6  当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 

7  しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。 

8  しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 

9  主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 

 御子が復活して聖霊を遣わした時から約2千年近く経過した時代に生きる私達が、もし福音の恵みに与っているのならば、それはただこの「遅れ」、つまり神の忍耐と慈悲深い愛によるものであることを再度覚える必要があるだろう。電車がたまたま遅れてそれに飛び乗ることができたからと言って、「今すぐには出発しない」「まだ出発までに時間がある」とホームに留まっている人々に言うのは正しくない。

 主なる神による福音宣教命令を意識している信仰者は、再臨の時を待ち望むと同時に、それが恵みの時の終わりと主の裁きの日の始まりを意味していることを知っているからこそ、再臨か「複合体」かとか、「Imminentか、それともImpendingか」とかの定義付けと関係なく、いまだに福音を受け入れていない人々に「今日、御声を聞いたならば、心を頑なにせず、救いを受け、備えてください」と語るのではないだろうか。

へブル3:12-15

12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。 

13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。

14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

15 それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。

ローマ13:11

なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。

P.S. 何度読んでも「いつ起こるかわからないからといって、ある一定の時には起こらないとわかっているということにはならない」の意味が文脈に適していない気がするのだけれど、どなたかに説明していただけたら、と思う。

「Θ」の文字が刻みこまれたリベルテンの家族の石碑

f:id:eastwindow18:20171202111558j:plain
 ボローニャ市立考古学博物館のエントランスに展示してある、紀元前一世紀後半から末の時代の石碑。
 左の初老の男性とベールで頭を覆った女性は、それぞれ「リベルテン」つまり奴隷としての社会地位から解放されローマ市民権を獲得していた人物(使徒行伝6:9参照)の夫婦と思われ、右の女性はこの夫婦の娘であったと言われている。
 人物像の上にはそれぞれ名前が刻まれている。

C-CORNELIUS HERMIA C‐L (カイオのリベルテン)
FULLONIA OFFICIOSA SAL-L(サルヴィオのリベルテン)
CORNELIA PRISCA C-L(カイオのリベルテン)

「カイオ」や「「サルヴィオ」は地名ではなく、元主人の名前だと思われる。

 特に意味深いのは、それぞれ名前とレリーフ像の間に刻まれている「V」と「Θ」の文字で、「V」は【vivus】の頭文字で「生きている」を意味し、「Θ」はギリシャ語【θάνατος / thanato】の頭文字テータで「死」を意味する。つまりこの石碑が造られた時、初老の夫婦は一人娘に先立たれていたことになる。
 親にとって自分の子供を失う以上の苦しみはないだろう。奴隷としての地位から苦労して解放され、石碑を残すほど富と地位を得ることに成功した夫婦が、成長した一人娘を失い、その痛みを石に刻み込んでいる。
 皺までリアルに表現されている男性の顔を見ながら、一度に十人の息子や娘を失い、自身も重い皮膚病と三人の「友人たち」による不条理な叱責に苦しんだヨブの魂の叫びの言葉を連想していた。

ヨブ19:23-27
23 どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。
24 鉄の筆と鉛とをもって、ながく岩に刻みつけられるように。
25 わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。
27 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。 

『ダニエル書「第70週の契約」』に関する検証

 ダニエル書9章に啓示されている「第七十週の契約」に関して、御子が十字架の贖罪のわざによって成し遂げた契約であるという解釈を展開している。全体的に難解で何度か読まないと理解しにくいところがあったが、少なくとも『マタイによる福音書』に記録されている御子イエス自身の言葉の光によって、再確認が必要ではないかと思う。

マタイ24:15-22

15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、

16 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。

17 屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。

18 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。

19 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。

20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。

21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。

22 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。  

 福音書記者マタイは霊感を受けて御子イエス・キリストの言葉を思い出し、それを書き残しているのだが、御子はまさにダニエル書の9章と12章の預言を根拠に、「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難」の期間について弟子たちに語っているのである。

ダニエル9:27

彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。

ダニエル12:11

常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。 

 「神のことば」である御子イエス自身が、ダニエル9章の預言をご自身の地上宣教の期間ではなく、「荒らす憎むべき者」反キリストが現れる大患難期に適用しているのだから、私達もヘブライ語の蘊蓄以前に、御子自身の適用を根拠に読解すべきだろう。