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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

花嫁と花婿の呼びかけ

黙示録22:16-21

16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。  

 聖書の結びの部分が、御子キリストとその花嫁である教会との呼びかけ合いで締め括られているのはとても美しい。

 花嫁はただ人生に退屈して暇つぶしに「来てください」と声をかけているのではない。なぜなら花嫁のうちに宿る御霊も一緒に「来てください」と言っているからである。それは御霊自らの切なる願いである。

 そしてその声を聞いた御子キリストは、「しかり。わたしはすぐに来る」と答え、その声を聞いた教会は再度「アーメン。主イエスよ、来てください」と回答しているのである。

 それは終末論に関する高尚な解説などではなく、互いに一緒にいることを求める花婿と花嫁の声の掛け合いとして啓示されているところに、私のうちの霊が震える。

 そう、わたしのうちで同じように「来てください」と叫んでいる。

Ⅱテモテ4:8

今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。 

 

「主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけ」

使徒8:9-19

9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。

10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。

11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。

12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。

13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。 

14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。

15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。

16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

18 使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、

19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。 

 エルサレム教会によって選ばれた七人の執事の一人であったピリポの伝道によって、サマリヤの町の多くの人々が御子イエス・キリストを信じ、水のパプテスマを受けた。

 そしてそのニュースを聞いたエルサレムの使徒たちは、ペテロとヨハネをサマリヤに遣わした。(「遣わす」という動詞自体、ペテロがエルサレム教会において最高責任者としての指導権をもっていなかったことを暗示している。)

 二人はそこでサマリヤの人々の上に手を置くと、人々は聖霊を受けた。聖書の記述はとてもシンプルで、「当たり前のこと」として書いているように見えるが、ここでは現代の信仰者が決して読み流すことができない重要な一つの単語が使われている。

16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

 原語【μόνον monon】をいくつかの英語訳は「simply」と訳しているが(http://biblehub.com/acts/8-16.htm 参照)、そのニュアンスは「only」と訳している他の全てのバージョンと同じである。

  霊感を受けて『使徒行伝』を書き記していたルカにとって、御子イエスの御名によって水のバプテスマを受けていたサマリヤの信仰者たちは、本来受けていなければいけないものを受けていなかった状態にいたのである。

 サマリヤの人々を罪の悔い改めと御子イエスに対する信仰告白へと導いたのは、聖霊の働きではなかったのだろうか。彼らには聖霊の臨在がなかったのだろうか。

 しかしペテロとヨハネの祈りを通してサマリヤの人々が経験した聖霊の働きは、本人たちが明確な自覚もないような曖昧なタイプの経験ではなかった。むしろ、すぐ近くにいた魔術師シモンにして、お金を払ってでもどうしても欲しいと強く願わせるような強烈なもの、しかもシモンがその現象を自分の目で見て、「これがピリポにしるしとすばらしい奇蹟を行わせている超自然的な力の正体である」と納得させるものがあったのである。

 聖霊はその働きを今の時代に合わせて変更したのだろうか。使徒たちが語り伝えていた福音を、神は現代風にアレンジして書き換えたのだろうか。

 「主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけ」という一言の御言葉にとまどいを覚え、「聖霊が下る」とは実際にどういうことを指すのかを祈り求める魂は、教会は、一体どこにいるのだろうか。

 ペテロとヨハネをわざわざエルサレムからサマリヤへ遣わした神は、そのような魂を探している。

神の義:「宥めの供え物」として示された御子イエス

ローマ3:21-26(新改訳)

21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 

 今までに数えきれないほど読み、デボーションをしてきた箇所だが、読めば読むほど輝きを増す啓示がちりばめられている。

  • 「神ご自身が義」:神の本質、変わることない永遠の属性を啓示している。それ自体、独立したもので、変質したり損なわれたりすることのない、完全な義である。神の存在自体が義そのものである
  • 「律法と預言者によってあかしされて」:その見えない神の義は、モーセの律法や預言者の言葉、つまり旧約聖書に証しされている。
  • 「律法とは別に…神の義が示されました」:律法において証しされていた神の義とは異なる形で、神の義が示された。
  • 「神はキリスト・イエスを…なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです」「今の時にご自身の義を現わすため」:神はご自身の義を示すにあたって、御子イエス・キリストを宥めの供え物として公に示す方法を選んだ。
  • 「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって」「信仰による、なだめの供え物として」「イエスを信じる者を義とお認めになるため」:完全な義なる神自身が、御子を十字架の犠牲の死を通して、ご自身の義を公に示されたから、人間はそれに何か加えることも取り除くこともできない。ただその完璧な義を心から信じ、受け入れるだけである。
  • 「それはすべての信じる人に与えられ」「価なしに義と認められる」:神自身が御子を通して示されたご自身の義を完全だと知っているから、それを受け入れる人間を義と認めることができる。

 多くの人が神の正義を疑い、「もし神がいたならば、あんなことは起こらなかっただろう」とか「なぜ神は悪が蔓延るのを黙ってみているのか」と非難する。信仰をもつ前の私がしていたように。

 彼らが訴えるのは、ただ「宥めの供え物」として十字架の上で公に示された御子イエス・キリストを、人間がいじくり回すことのできないその完璧な義を、その真の美しさを見出していないからだけである。

 そしてそれは多くのものに気を囚われているキリスト者自身にも責任があるのではないだろうか。

Ⅰコリント1:23-24;30-31

23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。 

30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。

「なだめ」「償い」「和解」

Ⅰヨハネ2:1ー2(新改訳)

1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。

2 この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。 

 King James Version訳で「Propitiation」、新改訳で「なだめ」(2017版では、「宥め」)と訳されているギリシャ原語【λασμός hilasmos】は、Revised Standard Version訳では「expiation (償い、罪滅ぼし)」、New International Version訳では「atoning 償い」と訳出している。

KJV

And he is the propitiation for our sins: and not for ours only, but also for the sins of the whole world.

 

RSV

and he is the expiation for our sins, and not for ours only but also for the sins of the whole world.

 

New International Version 
He is the atoning sacrifice for our sins, and not only for ours but also for the sins of the whole world.

 聖書の文脈において「なだめ」という言葉は、「人間の罪に対する神の聖なる怒りをなだめる」という意味をもつ。つまり罪のない御子イエスが全人類の身代わりとなって十字架の上で命を捧げ、死んでくださったことで、罪の報酬(代価)は払われ、罪に対する神の聖なる怒りの根拠が取り除かれたのである。つまり「なだめ」という言葉を使うとき、その対象は神である。

 一方、「償い(つぐない)」という場合、「犯した罪に対して、代価を払って埋め合わせをする」という意味だから、その対象は罪を犯した人間ということになる。God's Word Traslation訳(1995年)は、同じ「償い」というニュアンスでもより現代的な訳だろう。

GWT

He is the payment for our sins, and not only for our sins, but also for the sins of the whole world.

 私は個人的に「宥め」という訳の方が適していると思っているが、改めてこの言葉が使われている箇所を何度も読んでいるうちに、神の聖なる怒りを対象とした「宥め」も、人間の罪を対象とした「償い」も、互いに対立し片方がもう一方を否定するものではなく、双方が互いに補うものではないかと思うようになった。なぜなら、この文脈における中心的主題は、まさに「神と人間との間に立つ弁護者としての御子イエス・キリスト」であるからだ。

もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。

 使徒パウロも霊感を受けて、この真理を書き記している。

ローマ8:34

だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである

Ⅰテモテ2:5-6

5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

 このように観点で考えると、Jubilee Bible 2000訳の「reconciliation 和解」も補足的な訳として参考になるのではないかと思う。

JB2000

and he is the reconciliation for our sins, and not for ours only, but also for the sins of the whole world.

ローマ5:9-11

9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。

10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。

Ⅱコリント5:18-21

18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。

19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。

21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

 やはり聖書を読み解くカギは、常に御子イエス・キリストである。

「十字架の友」としての教会

家庭に、学校に、仕事場に、「自分の居場所」を見出せない魂に

「場所ではない居場所」を提供する力と責任を教会はもっていると思う。

どこに行っても居心地悪さしか感じない、しかもその理由がわからない魂が、

仮面をかぶらず、身構えないでそのまま入っていくことができる繫がり。

 

学歴や肩書、社会的地位、職種、成績、収入…

消し去ることのできない過去の経験、現在の悲惨、そして将来への不安。

輝かしい過去、満ち足りた現在、安泰だと思える将来。

 

これらのものに依存していない繫がりをつくる資質が、

十字架に架けられた御子イエス・キリストを愛し、

従おうとする教会には与えられていると思う。

御子自身が宗教権力者たちから「罪びとの友」と揶揄されながらも、社会的に疎外されていた人々と共にいたのだから。

 

地域教会に傷ついた魂が近づかない時、この世の不信仰を嘆くよりも、むしろ私たちが本当に「十字架の友」として歩んでいるかどうかを自省すべきではないだろうか。

ガラテヤ6:14-16

14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。

16 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。

主なる神の不思議な導き

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(赤でアンダーラインを引いたところがピリピとローマ)

 一般的に使徒行伝16章に記述されているピリピ(Philippi)の教会の誕生のエピソードに基づいて、「ルデヤはキリストの福音を受け入れた最初のヨーロッパ人で、しかも女性だった」とか「ピリピ教会がヨーロッパ最初の教会」などと主張されている。

 しかし実際にはルデヤは小アジア(現在のトルコ西部)のテアテラ市出身の商人で、おそらくその仕事の関係で、当時重要なローマ植民都市であったピリピに家族で滞在もしくは移住していた時に福音を聞くことになった。

使徒16:14-15

14 ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。 

15 そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。 

  ここにはとても不思議な御霊の導きが啓示されている。というのも、上の地図でわかる通り、第二次伝道旅行において、使徒パウロとテモテはトロアスからピリピに渡る前に、テアテラ市からそれほど離れていないところを通っていたのである。

 しかし御霊は私たちには理解できない理由で、使徒たちがその時点において福音を伝えるのを禁じていたのである。

使徒16:6-8

6 それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。

7 そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。

8 それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った。 

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 つまりテアテラ市出身のルデヤは、自分の町でではなく、海の向こうのギリシャのピリピで救いを受けなければならなかったのである。それはもしかしてルデヤの家において、ピリピ教会の核が生れなければならなかったからかもしれない。

使徒16:40

ふたりは獄を出て、ルデヤの家に行った。そして、兄弟たちに会って勧めをなし、それから出かけた。 

 しかし冒頭にも書いた通り、このピリピ教会の誕生は、「ヨーロッパにおける最初の教会の誕生」ではなかった。というのも、このエピソードの後、パウロはコリント市へ伝道のために訪れた時、アクラとプリスキラという霊的に非常に成熟した信仰者夫婦に知り合うからである。この夫婦は、クラウデオ皇帝が西暦49年に発令したユダヤ人追放の勅令により、ローマから移住してきていた。(おそらくこの勅令が原因で、当時非常に重要なローマ植民都市であったピリピにシナゴーグがなく、宣教グループの中でユダヤ人であったシラスとパウロだけが牢獄に入れられたのではないかと思われる。使徒16:20参照)

使徒18:1-2

1 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。

2 そこで、アクラというポント生れのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるようにと、命令したため、彼らは近ごろイタリヤから出てきたのである。  

  つまりこの西暦49年の時点で、ローマにはアクラとプリスキラを生み出すような霊的に成熟した環境があったことを暗示している。

 実際、ローマにおける教会の誕生は、エルサレムのペンテコステの際に救われ、聖霊の満たしを受けた「ローマから巡礼に来ていた者たち」が、自分たちの街に戻って御子イエスがキリストであることを同胞に伝えたことが発端だったと言われている。

使徒2:5-11

5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、

6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。

7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。

8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。

9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、

10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者

11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。 

 主なる神はその御心によって一人一人の魂を導き、個人的な領域だけでなく、教会を通して実現するご自身の計画に最も適した時と状況のうちに、それらの魂を救いに至らせるのである。

 私自身もその神の知恵によって、生れ育った国から4000km離れた地に導かれ、救いを受けた一人である。