an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけ」

使徒8:9-19

9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。

10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。

11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。

12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。

13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。 

14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。

15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。

16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

18 使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、

19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。 

 エルサレム教会によって選ばれた七人の執事の一人であったピリポの伝道によって、サマリヤの町の多くの人々が御子イエス・キリストを信じ、水のパプテスマを受けた。

 そしてそのニュースを聞いたエルサレムの使徒たちは、ペテロとヨハネをサマリヤに遣わした。(「遣わす」という動詞自体、ペテロがエルサレム教会において最高責任者としての指導権をもっていなかったことを暗示している。)

 二人はそこでサマリヤの人々の上に手を置くと、人々は聖霊を受けた。聖書の記述はとてもシンプルで、「当たり前のこと」として書いているように見えるが、ここでは現代の信仰者が決して読み流すことができない重要な一つの単語が使われている。

16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

 原語【μόνον monon】をいくつかの英語訳は「simply」と訳しているが(http://biblehub.com/acts/8-16.htm 参照)、そのニュアンスは「only」と訳している他の全てのバージョンと同じである。

  霊感を受けて『使徒行伝』を書き記していたルカにとって、御子イエスの御名によって水のバプテスマを受けていたサマリヤの信仰者たちは、本来受けていなければいけないものを受けていなかった状態にいたのである。

 サマリヤの人々を罪の悔い改めと御子イエスに対する信仰告白へと導いたのは、聖霊の働きではなかったのだろうか。彼らには聖霊の臨在がなかったのだろうか。

 しかしペテロとヨハネの祈りを通してサマリヤの人々が経験した聖霊の働きは、本人たちが明確な自覚もないような曖昧なタイプの経験ではなかった。むしろ、すぐ近くにいた魔術師シモンにして、お金を払ってでもどうしても欲しいと強く願わせるような強烈なもの、しかもシモンがその現象を自分の目で見て、「これがピリポにしるしとすばらしい奇蹟を行わせている超自然的な力の正体である」と納得させるものがあったのである。

 聖霊はその働きを今の時代に合わせて変更したのだろうか。使徒たちが語り伝えていた福音を、神は現代風にアレンジして書き換えたのだろうか。

 「主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけ」という一言の御言葉にとまどいを覚え、「聖霊が下る」とは実際にどういうことを指すのかを祈り求める魂は、教会は、一体どこにいるのだろうか。

 ペテロとヨハネをわざわざエルサレムからサマリヤへ遣わした神は、そのような魂を探している。