an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

見かけで裁かず、正しい裁きをせよ。

ヨハネ7:23-24(新改訳)

23 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。

24 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。

 律法学者やパリサイ人が主張していた、モーセの律法の適用から派生する「正しさ」と、御子イエスが主張する「正しさ」との間に、ギャップがあることが示されている。御子の言葉によれば、それは「うわべの正しさ」と「本質的な正しさ」の違いであった。

 24節は「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」(マタイ7:1)と共によく議論の時に引用されるが、この言葉は御子の言動を批判していた人々に対して御子自身が語ったものである。口語訳や新改訳では原文にはない【人を】という表現が挿入されており、一般論的な適用になりがちであるが、まず第一に適用する領域は、御子の言葉や働きに対して私たちがどのような基準でどう判断しているかを省察することではないだろうか。

 私たちは聖書の啓示を「自分の正しさ」によって解釈し、裁いていないだろうか。聖霊を通して今も働かれている神のわざを、律法的な正しさや「肉」によって、つまり伝統や、数の法則、自分の感情・感覚を判断基準にして容認したり、称賛したり、否定・拒否したりしていないだろうか。

(前田訳)

見かけで裁かず、正しい裁きをせよ。