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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリスト・イエスと十字架のみを誇る喜び

ピリピ3:1-3

1 最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩らわしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。

2 あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。

3 神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。 

 肉体の割礼は、神の民であり、アブラハムの子孫であることを示す一つの「契約のしるし」であった。

創世記17:9-14

9 神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち

10 男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。

11 あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。

12 あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けなければならない。

13 あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない。こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。

14 割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。

 その割礼を肉体に受けていることを誇っていたユダヤ人に対して、使徒パウロは自分自身も割礼を受けていた生粋のユダヤ人でありながらも、別のグループ、つまり「キリストによる心の割礼を受けている者」のグループに属することを主張している。

神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。

コロサイ2:9-11

9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、

10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、

11 あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。 

 キリストの十字架の死と復活によって、「キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てた」からこそ、アブラハムの子孫としての「しるし」を肉体に持っていた使徒パウロは、その「しるし」を誇ることを意味がない、否、むしろ損であり、「σκύβαλον
skubalon 糞」であるみなし、イエス・キリストだけを誇る者として自分を定義した。

ピリピ3:7-9

7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。

8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、

9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

 主なる神の前に真に価値があるは、御子イエス・キリストだけである。なぜなら彼は唯一の愛する子であり、彼だけが父の御心を完全に全うした方だからである。

ルカ3:21-22

21 さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、

22 聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 

ピリピ2:6-11

6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、

7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、

8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。

10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、

11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 

 私たちは皆、神から遠く離れ、神の御心に反して生きていた。そして誰一人、神の律法を全うすることができた者はいない。神の神聖と栄光を顕している律法を守ることができないので、御子がもつ栄光を誰一人、自分の力で獲得する者はいないのである。

ローマ3:9-20

9 すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。

10 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。

11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。

12 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。

13 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、

14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。

15 彼らの足は、血を流すのに速く、

16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

17 そして、彼らは平和の道を知らない。

18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。

20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 

ローマ3:23

すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、

 しかしそのような私たちの罪を背負って、罪のない御子が身代わりとなって死んでくださったことによって、私たちは御子のうちに神に受け入れられたのである。

 だからこそ、信仰者は古き自己の死であり、罪の赦しのしるしである十字架だけを誇り、死から復活した御子イエス・キリストだけを誇るのである。

ガラテヤ6:13-15

13 事実、割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである。

14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。 

 主イエス・キリストの十字架によって、「この世はパウロに対して死に、パウロもこの世に対して死んでしまった」からこそ、パウロは「私たちの国籍は天にある」と告白することができたのである。

 そして自分自身を誇ることに死んで、キリストのみを真心から誇りにしていたからこそ、大胆に「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい」と勧めることができたのである。

ピリピ3:17-21

17 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。

18 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。

19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。

20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。

21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

  私たちは詩篇記者アサフと共に、御子だけを誇り、霊と真理によって父なる神に賛美の礼拝を捧げ続けよう。

詩篇73:25-26

25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。

26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。 

 ピリピ1:1が言うところの、私たちを守る「主にあって喜ぶこと」は、御子イエスだけを誇る、このような心に実る聖霊の実である。

イスラエルの土地は全部国有地

合法化法案:国会通過 2017.2.8|オリーブ山便り

*土地は全部国有ということについて

イスラエルでは、土地はすべて国有で、個人所有地はない。一部、ギリシャ正教の土地などがあるが、政府が長期で借り上げて、市民にリースしている。ちなみにクネセト(国会)を含む地域の土地は、政府が、ギリシャ正教から長期で借り上げている土地。

このため、新しい土地に何かを建てる際、非常に複雑で長い手続きが必要になる。イスラエルの住宅事情がなかなか改善しない一因になっている。

(引用終わり)

  イスラエル共和国の憲法が、国土の境界線を指定していないということは知っていたが、「土地は全部国有」というのは初めて聞いた。

 考えてみれば、キブツなどは社会主義的理想とシオニズムが融合したものだと思うし、マルクス(父親がラビであった。マルクス自身はユダヤ教から破門を受けたようだが)やレーニン、スターリンなどもアシュケナジーであったから、その根底には「土地は個人のものではなく、神がそれぞれの部族に与えた嗣業」という意識が深く根付いているのかもしれない。

レビ25:23

地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。 

民数記36:7

そうすればイスラエルの人々の嗣業は、部族から部族に移るようなことはないであろう。イスラエルの人々は、おのおのその父祖の部族の嗣業をかたく保つべきだからである。

 どこかの国のように水源地を平気で外国人に売り渡してしまう、ということは絶対にあり得ないことなのだろう。

復活した御子の体の十字架の傷痕

ヨハネ20:24-29

24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。

25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。

27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。

28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。

29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。 

  ギリシャ語で「双子」を意味する「デドモ(Didymus)」という呼ばれていたトマスに、復活の姿を顕した御子の体には、十字架の苦難の傷が残っていた。手には釘の傷痕があり、ローマ兵士の槍で突かれた脇の傷痕は、八日後でも開いていた。

 何という真理だろうか。死から復活した御子の栄光の体に十字架の傷痕が生々しくあるのである。御霊に満たされ、生まれつき盲人だった男の目を開き、痛々しく腐りただれた皮膚の病人を生まれたばかりの赤子のような皮膚に癒し、剣で切り取られた耳の傷を一瞬で癒すことができた方が死から復活した姿に、当時最も忌み嫌われていた十字架刑の傷痕が開いたまま残っているとは。

黙示録5:6

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。

 使徒ヨハネが流刑の島パトモスで見た天の栄光の幻には、「屠られた見える子羊」がいた。全世界を支え、動かし、いのちを与える力と知恵を顕す七つの角と七つの目を持っているのに、屠られた傷跡がまだ消えていない。なぜなら、それは神の本質の一部であるからだ。

 神は天地創造をする前から、また自由意志をもった御使いや人間を造る前から、やがてその意志が神の意志に背き、神の完全な「作品」を取返しつかないほど傷つけることを知っておられた。それは如何なるものも創造されていない段階で、神自身の御心の中にあったのである。

 その「傷」と同時に、神の御心の中には、御子による贖いの計画も存在していた。というより、御子自身が贖いそのものを顕しており、そのうちに贖いのための「犠牲の傷」があるのである。

 モーセがシナイ山で受け取った、神が人と交われるために与えられた神の天幕の構造は、その御子の永遠の真理を示している。

出エジプト25:9

すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。 

出エジプト25:40

そしてあなたが山で示された型に従い、注意してこれを造らなければならない。

へブル8:1-5

1 以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、

2 人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。

3 おおよそ、大祭司が立てられるのは、供え物やいけにえをささげるためにほかならない。したがって、この大祭司もまた、何かささぐべき物を持っておられねばならない。

4 そこで、もし彼が地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。

5 彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。 

  つまり神の幕屋の最も中心には至聖所と呼ばれる最も神聖な空間があり、その中には純金で覆われた契約の箱だけが置かれていた。その箱のふたは贖罪所と呼ばれ、向かい合うようにケルビム(神の神聖を守る役割を与えられていた御使い)の像が置かれ、それらのケルビムの真ん中には、大祭司が一年に一度の贖罪の日に注いていた、動物の犠牲の血があった。

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出エジプト25:10-22

10 彼らはアカシヤ材で箱を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。

11 あなたは純金でこれをおおわなければならない。すなわち内外ともにこれをおおい、その上の周囲に金の飾り縁を造らなければならない。

12 また金の環四つを鋳て、その四すみに取り付けなければならない。すなわち二つの環をこちら側に、二つの環をあちら側に付けなければならない。

13 またアカシヤ材のさおを造り、金でこれをおおわなければならない。

14 そしてそのさおを箱の側面の環に通し、それで箱をかつがなければならない。

15 さおは箱の環に差して置き、それを抜き放してはならない。

16 そしてその箱に、わたしがあなたに与えるあかしの板を納めなければならない。

17 また純金の贖罪所を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。

18 また二つの金のケルビムを造らなければならない。これを打物造りとし、贖罪所の両端に置かなければならない。

19 一つのケルブをこの端に、一つのケルブをかの端に造り、ケルビムを贖罪所の一部としてその両端に造らなければならない。

20 ケルビムは翼を高く伸べ、その翼をもって贖罪所をおおい、顔は互にむかい合い、ケルビムの顔は贖罪所にむかわなければならない。

21 あなたは贖罪所を箱の上に置き、箱の中にはわたしが授けるあかしの板を納めなければならない。

22 その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。  

レビ記16:29-34

29 これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。

30 この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。

31 これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。

32 油を注がれ、父に代って祭司の職に任じられる祭司は、亜麻布の衣服、すなわち、聖なる衣服を着て、あがないをしなければならない。

33 彼は至聖所のために、あがないをなし、また会見の幕屋のためと、祭壇のために、あがないをなし、また祭司たちのためと、民の全会衆のために、あがないをしなければならない。

34 これはあなたがたの永久に守るべき定めであって、イスラエルの人々のもろもろの罪のために、年に一度あがないをするものである」。彼は主がモーセに命じられたとおりにおこなった。  

 興味深いことに、この贖罪の日は安息日であったが、民は年に一度断食をもって「身を悩まさなければいけなかった」ことである。ここで「身」と和訳されている【נפשׁ nephesh】は【息吹、霊、魂】という意味をもつ。

 詩篇69:10

わたしが断食をもってわたしの魂を悩ませば、かえってそれによってそしりをうけました。 

  つまり民は通常の仕事をせず、完全に安息する日であったが、罪に対する悔い改めを顕す断食によって魂を悩まし、至聖所においては大祭司が神の民全体のために罪の贖いを行う日であった。

 これはキリスト者が信仰によって受ける魂の安息が、御子の犠牲の死とよるものであり、また「御子と共に自分も十字架に架けられて死んだ」という真理に対する悔い改めから生れることを暗示している。

「七つの封印で封じられた巻物」に関する記事一覧

 『黙示録』に中に啓示されている「七つの封印で封じられた巻物」について書いた記事の順番に連続性がないので、以下、黙示録に啓示されている秩序に従い、記事を並べてみた。上から順番に読んでいただき、この難解な個所の総合的な理解に少しでも役に立てていただければと願う。

 また私が見落としている詳細や異なる解釈の可能性など示していただければ、と思う。

 

 

 

第七の封印:七つのラッパ

黙示録8:1-5

1 小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。

2 それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。

3 また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。

4 香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。

5 御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。 

  いよいよ、七つの封印で封じられていた巻物の、最後の封印が子羊、つまり御子イエスによって解かれた。第一の封印が解かれて時からここまでで起きた全てのことは、言わば「巻物の外側に書かれていた内容」であり、第七の封印が解かれた時点から、「巻物の内側に書かれている内容」の啓示が始まるのである。

 黙示録5:1

わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。 

 それは「主の日」が決定的かつ不可逆的に到来したことを意味し、地上に対する神の正しい裁きが始まったことを示している。実際、七人の御使いがそれぞれもつラッパは、地上に神の裁きがもたらすことを示している。

 また祭壇の火で満たされ、香の煙を立ち昇らせる金の香炉は神の正しい裁きを求める祈りであり、それが地上に投げ落とされるのは、その神の正義による報復が成就することを暗示している。

黙示録6:9-10

9 小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。

10 彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。 

 一番目のラッパから七番目のラッパが吹かれるまで、地上に対する裁きはクレッシェンドに厳しくなっていき、七番目のラッパと共に、それはピークの段階に突入することになる(その直前にエルサレムの二人の証人が天に引き上げられるのは意味深い)。

 そして神の正しい怒りの顕れが最終段階に入ると共に、地上における悪の顕現もその邪悪さにおいて頂点に達することになる。

黙示録10:5-7

5 それから、海と地の上に立っているのをわたしが見たあの御使は、天にむけて右手を上げ、

6 天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造り、世々限りなく生きておられるかたをさして誓った、「もう時がない。

7 第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」。 

黙示録11:15-18

15 第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。

16 そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、

17 「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。

18 諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」。 

黙示録12:9-12

9 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。

10 その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。

11 兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。

12 それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。 

第六の封印(2):十四万四千人のイスラエル人

黙示録7:1-8

1 この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。

2 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、

3 「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。

4 わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。

5 ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、

6 アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリの部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、

7 シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、

8 ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。 

  第六の封印が解かれた時、イスラエルの子孫のうち、「神の僕」として十四万四千人が選ばれることになる。「神の僕」と言っても、彼らのアイデンティティーは非常に特別で、イエスが救い主であると信じた者としてだけでなく、「女にふれたことのない男性」「純潔な者」「口には偽りがなく」「傷のない者」であると記されている。

 彼らの特殊性は、彼ら十四万四千人以外が学ぶことができない「新しい歌」を神の御座の前で歌うことになることでも暗示されている。つまりこの選ばれたキリスト者たちは、地上における宣教において他のキリスト者は体験しないような経験から「新しい歌」を「学ぶ」ことになるのだろう。

黙示録14:1-5

1 なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。

2 またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。

3 彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。

4 彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。

5 彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。 

  主イエスは「十二使徒」や使徒パウロや使徒バルナバを各部族の代表として選んだわけではなかったので、その意味でもこの十四万四千人の召命は特別で、大患難期という人類史上かってない、またこれからもないような特殊な時期にキリストの証人として遣わされることの重大さを暗示している。

 これは主なる神がイスラエルの子孫に最初から求めていたアイデンティティーの実現でもある。

イザヤ43:9-12

9 国々はみな相つどい、もろもろの民は集まれ。彼らのうち、だれがこの事を告げ、さきの事どもを、われわれに聞かせることができるか。その証人を出して、おのれの正しい事を証明させ、それを聞いて「これは真実だ」と言わせよ。

10 主は言われる、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。

11 ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。

12 わたしはさきに告げ、かつ救い、かつ聞かせた。あなたがたのうちには、ほかの神はなかった。あなたがたはわが証人である」と主は言われる。 

 この十四万四千人のイスラエルの子孫による全世界的な宣教によって他の多くのユダヤ人もイエスがメシアであると信じて救われるだろう。そうなると、以下の聖句と合わせて考えると、この時期以後に救われるユダヤ人以外の異邦人がどれだけいるのか、甚だ疑問である。なぜなら「異邦人が全部救われるに至る時」がすでに過ぎたことを意味しているからである。

ローマ11:25-27

25 兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、

26 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。

27 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。 

 実際、地上において十四万四千人のイスラエルの子孫が選ばれた同じ時期に、使徒ヨハネは天における「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆」が御座と子羊の御前で賛美している幻を見ている。つまり無数の異邦人がすでに地上から贖われ、神の御前で仕えているのである。

黙示録7:9-17

9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、

10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。

11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、

12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。

14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。

15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。

16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。

17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

 十四万四千人の神の証人たちが迫害によって殉教し、天の御座の前に導かれた後、地に残された人々に対して一人の御使いが永遠の福音を伝えることになる。

黙示録14:6-13

6 わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、

7 大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。

8 また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」。

9 ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、

10 神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

11 その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。

12 ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。

13 またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。 

 これは十四万四千人が天に移された後も、「主にあって死ぬ死人」つまり、獣とその像とを拝んだり、その名の刻印を受けることを拒否して、殉教する人々が少なからずいることを示している。

 しかしその殉教も、御子によって地上から刈り取られると表現されているのは興味深い。

黙示録14:14-16

14 また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。

15 すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」。

16 雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものが刈り取られた。

 この「刈り入れ」によって、地上に対する神の激しい怒りが頂点に達する前に、「獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々」が天に移され、神を賛美することになる。

黙示録15:1-4

1 またわたしは、天に大いなる驚くべきほかのしるしを見た。七人の御使が、最後の七つの災害を携えていた。これらの災害で神の激しい怒りがその頂点に達するのである。

2 またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。

3 彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、「全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。

4 主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります」。 

 

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第五の封印(2):祭壇の下にいる霊魂

黙示録6:9-11

9 小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。

10 彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。

11 すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」と言い渡された。 

 聖書が啓示する神の被造物としての人間は、霊と魂と肉体という三つの要素によって構成された存在である。

Ⅰテサロニケ5:23(新改訳)

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

 「天の祭壇の下にいる、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂(ψυχή psuchē)」

 使徒ヨハネが天の祭壇の下にいるの見た「魂」は、地上の生において神の言葉を証した故に殺された人々が、肉体を離れ、霊の次元である神の御前に導かれていたものだった。「祭壇の下」という象徴的な位置も、使徒パウロの言葉が暗示しているように、神の証しのために自らの命を捧げたことを示している。

ピリピ2:17

そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。 

 「白い衣が与えられた」ということは、地上の生において最後まで信仰を守り通し、勝利したと主なる神に認められた、ということである(黙示録3:4-5参照)。

  興味深い点は、これらの殉教者の魂に対して、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」という言葉がかけられたことである。これはつまり、神はその計画の中で殉教者の数をあらかじめ定めている、ということになる。言葉は悪いが、その「定員数」に到達するまで、これらの殉教者は休息するに命じられているのである。

 この休息の言葉は、七章に登場する、同じように白い衣を着た、「あらゆる国民、部族、民族、国語の、数えきれないほどの大群衆」の、命に満ち、エネルギッシュな奉仕(「昼も夜もその聖所で神に仕えている」)によって主に仕えているイメージと大分異なる。

黙示録7:9-15

9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、

10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。

11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、

12  アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。

14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。

15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。 

 この御座と子羊の前で仕えている「あらゆる国民、部族、民族、国語の、数えきれないほどの大群衆」と 、「天の祭壇の下にいる、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂」は異なるグループなのではないと私は解釈している。

 また天の祭壇の下にいるこれらの殉教者の霊魂が、「いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」と訴えており、また「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまでもうしばらくの間、休んでいるように」と言い渡されているということは、この時点ではまだ「主の日」、つまり「神の裁きの日」「神の報復の日」が地上において始まっていないことを暗示している。

 実際、地上において「神と子羊の御怒りの大いなる日」の訪れを地上に残された人々が認識するのは、第六の封印が解かれた後だからである。

黙示録6:15-17

15 地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。

16 そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。

17 御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。

 そして使徒パウロによる啓示に照らし合わせると、この時点ではもうすでに反キリストが地上に現れていることも確かである。その邪悪な活動がピークを迎えるのはもう少し後のようだが。

Ⅱテサロニケ2:2-3(新改訳)

2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。

3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数」の中に、反キリストによる大迫害下に殉教する人々、つまり黙示録20章に記述されている「イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たち」「獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった者の魂」も含まれているのかどうか、判断が難しいところである。

黙示録20:4-6(口語訳)

4 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。 

5 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。

6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。

20:4(新共同訳)

わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。

 この箇所でも、多くの座に座って裁くことが許された人々と、反キリストの迫害によって殉教した人々が別のグループとして表現されている。

ダニエル7:9

9 わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。

22(新改訳) しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。  

 もし大患難期に反キリストの迫害によって殉教した人々が含まれている場合、祭壇の下で休んでいるように命じられた霊魂は、キリストの地上来臨の時までその状態に留まることを暗示し、来臨と共に復活し、キリストと共に千年王国において統治することになる。

 私が教会の携挙(空中来臨)の際の復活と、地上来臨の際の復活と時期も対象も異なるのではないか、と考えるのはそのためである。

Ⅰテサロニケ4:13-17

13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。

14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。

15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。

16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、

17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

 しかしこの私の考えは、修正のマージンをかなり持っているもので、今の段階では残念ながら確信的な解釈ではない。

 

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