復活した御子の体の十字架の傷痕
ヨハネ20:24-29
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
ギリシャ語で「双子」を意味する「デドモ(Didymus)」という呼ばれていたトマスに、復活の姿を顕した御子の体には、十字架の苦難の傷が残っていた。手には釘の傷痕があり、ローマ兵士の槍で突かれた脇の傷痕は、八日後でも開いていた。
何という真理だろうか。死から復活した御子の栄光の体に十字架の傷痕が生々しくあるのである。御霊に満たされ、生まれつき盲人だった男の目を開き、痛々しく腐りただれた皮膚の病人を生まれたばかりの赤子のような皮膚に癒し、剣で切り取られた耳の傷を一瞬で癒すことができた方が死から復活した姿に、当時最も忌み嫌われていた十字架刑の傷痕が開いたまま残っているとは。
黙示録5:6
わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。
使徒ヨハネが流刑の島パトモスで見た天の栄光の幻には、「屠られた見える子羊」がいた。全世界を支え、動かし、いのちを与える力と知恵を顕す七つの角と七つの目を持っているのに、屠られた傷跡がまだ消えていない。なぜなら、それは神の本質の一部であるからだ。
神は天地創造をする前から、また自由意志をもった御使いや人間を造る前から、やがてその意志が神の意志に背き、神の完全な「作品」を取返しつかないほど傷つけることを知っておられた。それは如何なるものも創造されていない段階で、神自身の御心の中にあったのである。
その「傷」と同時に、神の御心の中には、御子による贖いの計画も存在していた。というより、御子自身が贖いそのものを顕しており、そのうちに贖いのための「犠牲の傷」があるのである。
モーセがシナイ山で受け取った、神が人と交われるために与えられた神の天幕の構造は、その御子の永遠の真理を示している。
出エジプト25:9
すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。
出エジプト25:40
そしてあなたが山で示された型に従い、注意してこれを造らなければならない。
へブル8:1-5
1 以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、
2 人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。
3 おおよそ、大祭司が立てられるのは、供え物やいけにえをささげるためにほかならない。したがって、この大祭司もまた、何かささぐべき物を持っておられねばならない。
4 そこで、もし彼が地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。
5 彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。
つまり神の幕屋の最も中心には至聖所と呼ばれる最も神聖な空間があり、その中には純金で覆われた契約の箱だけが置かれていた。その箱のふたは贖罪所と呼ばれ、向かい合うようにケルビム(神の神聖を守る役割を与えられていた御使い)の像が置かれ、それらのケルビムの真ん中には、大祭司が一年に一度の贖罪の日に注いていた、動物の犠牲の血があった。
出エジプト25:10-22
10 彼らはアカシヤ材で箱を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。
11 あなたは純金でこれをおおわなければならない。すなわち内外ともにこれをおおい、その上の周囲に金の飾り縁を造らなければならない。
12 また金の環四つを鋳て、その四すみに取り付けなければならない。すなわち二つの環をこちら側に、二つの環をあちら側に付けなければならない。
13 またアカシヤ材のさおを造り、金でこれをおおわなければならない。
14 そしてそのさおを箱の側面の環に通し、それで箱をかつがなければならない。
15 さおは箱の環に差して置き、それを抜き放してはならない。
16 そしてその箱に、わたしがあなたに与えるあかしの板を納めなければならない。
17 また純金の贖罪所を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。
18 また二つの金のケルビムを造らなければならない。これを打物造りとし、贖罪所の両端に置かなければならない。
19 一つのケルブをこの端に、一つのケルブをかの端に造り、ケルビムを贖罪所の一部としてその両端に造らなければならない。
20 ケルビムは翼を高く伸べ、その翼をもって贖罪所をおおい、顔は互にむかい合い、ケルビムの顔は贖罪所にむかわなければならない。
21 あなたは贖罪所を箱の上に置き、箱の中にはわたしが授けるあかしの板を納めなければならない。
22 その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。
レビ記16:29-34
29 これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。
30 この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。
31 これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。
32 油を注がれ、父に代って祭司の職に任じられる祭司は、亜麻布の衣服、すなわち、聖なる衣服を着て、あがないをしなければならない。
33 彼は至聖所のために、あがないをなし、また会見の幕屋のためと、祭壇のために、あがないをなし、また祭司たちのためと、民の全会衆のために、あがないをしなければならない。
34 これはあなたがたの永久に守るべき定めであって、イスラエルの人々のもろもろの罪のために、年に一度あがないをするものである」。彼は主がモーセに命じられたとおりにおこなった。
興味深いことに、この贖罪の日は安息日であったが、民は年に一度断食をもって「身を悩まさなければいけなかった」ことである。ここで「身」と和訳されている【נפשׁ nephesh】は【息吹、霊、魂】という意味をもつ。
詩篇69:10
わたしが断食をもってわたしの魂を悩ませば、かえってそれによってそしりをうけました。
つまり民は通常の仕事をせず、完全に安息する日であったが、罪に対する悔い改めを顕す断食によって魂を悩まし、至聖所においては大祭司が神の民全体のために罪の贖いを行う日であった。
これはキリスト者が信仰によって受ける魂の安息が、御子の犠牲の死とよるものであり、また「御子と共に自分も十字架に架けられて死んだ」という真理に対する悔い改めから生れることを暗示している。