an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

十字架の上の「なぜ」

マタイ27:46

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。  

 全知の神の御子イエスが、十字架の上で「なぜ」と父なる神に問いかけている。

 

 新約聖書において、御子は何度も弟子たちや宗教権威者たちに「なぜ」と問いかけていた。しかしそれらの問いかけは、彼が何か理解できないことや知らないことがあったからではなく、いずれも問われた者に悔い改めを促す意味合いを持っていた。

 

 息子とはぐれてしまい慌てふためく両親に対して「どうしてわたしをお捜しになったのですか」と問いかけ、溺れかけた使徒ペテロには「なぜ疑うのか」と問い、パリサイびとらには「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか」「あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか」 、弟子たちには「なぜ、眠っているのか」「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか」、空の墓の前で泣いていたマグダラのマリヤには「なぜ泣いているのですか」、教会を迫害していたサウロには「なぜわたしを迫害するのか」と問いかけた。

 

 しかし父なる神に対しては、一度たりとも「なぜ」と問いかけたことはなかった。御子には、知識の上でも、父なる神との交わりという意味でも、そのような問いをする理由がなかった。父なる神のご自身に対する御心を完全に知っていただけでなく、その御心に完全に同意し、また恭順、つまり自ら喜び、畏敬の念によって従っていたからである。

 

 だから十字架の上から父なる神に投げかけられた「なぜ」は、御子がその時に背負っていた全人類の罪と律法の呪いを表しているのである。

Ⅱコリント5:21

神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。 

ガラテヤ3:13

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

 その「律法の呪い」とは、申命記28章に啓示されているものである。

28 また主はあなたを撃って気を狂わせ、目を見えなくし、心を混乱させられるであろう。

34 こうしてあなたは目に見る事柄によって、気が狂うにいたるであろう。

65 その国々の民のうちであなたは安きを得ず、また足の裏を休める所も得られないであろう。主はその所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を打ちしおれさせられるであろう。

66 あなたの命は細い糸にかかっているようになり、夜昼恐れおののいて、その命もおぼつかなく思うであろう。

 

 驕り高ぶり、神のように善悪を知る者になろうとしたアダムの罪、そして報いとしての死と呪いは、へりくだり、十字架の上で「なぜ」と叫んだ神の子イエスによって完全にあがなわれたのである。

 

 私たちがいかなる不条理や混乱の中にあったとしても、御子の尊き犠牲によって、幼子のように自分たちの魂を委ね、安らぐことがことができるこの恵みに、心から感謝し、御子の栄光を賛美しよう。