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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

エルサレムでもない所で

救いへの一歩 十字架の言 イスラエルの民の歴史

ヨハネ4:19-24

19 女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。

20 わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。

21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。

23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

 「この山でも、またエルサレムでもない所で」。この何気な一節も、律法がイスラエルの民に命令していたことを考慮して読むと、実に革新的な宣言であることがわかる。ユダヤ人から「混血の異端者」として侮蔑されていたサマリヤ人が礼拝の場所としていたゲリジム山については理解できるとしても、エルサレムについては、旧約聖書の中で幾度も「主がご自身の御名を置くために選ばれた場所」と言及されているからである。

申命記12:5-7;11-14

5 あなたがたの神、主がその名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主のすまいを尋ね求めて、そこに行き、

6 あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物と、誓願の供え物と、自発の供え物および牛、羊のういごをそこに携えて行って、

7 そこであなたがたの神、主の前で食べ、あなたがたも、家族も皆、手を労して獲るすべての物を喜び楽しまなければならない。これはあなたの神、主の恵みによって獲るものだからである。

11 あなたがたの神、主はその名を置くために、一つの場所を選ばれるであろう。あなたがたはそこにわたしの命じる物をすべて携えて行かなければならない。すなわち、あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物およびあなたがたが主に誓ったすべての誓願の供え物とを携えて行かなければならない。

12 そしてあなたがたのむすこ、娘、しもべ、はしためと共にあなたがたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。また町の内におるレビびととも、そうしなければならない。彼はあなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないからである。

13 慎んで、すべてあなたがよいと思う場所で、みだりに燔祭をささげないようにしなければならない。

14 ただあなたの部族の一つのうちに、主が選ばれるその場所で、燔祭をささげ、またわたしが命じるすべての事をしなければならない。 

 燔祭などの様々ないけにえや什一、供え物、つまり主なる神に捧げる礼拝は、自分の都合で選んだ場所ではなく、主なる神自身が選んだ場所、つまりエルサレムの神殿においてしか捧げることはできなかったのである。

 それは決して人間の意志によらず、主が望み、主が選んでそのように定めたことであった。

列王上8:29

あなたが『わたしの名をそこに置く』と言われた所、すなわち、この宮に向かって夜昼あなたの目をお開きください。しもべがこの所に向かって祈る祈をお聞きください。

歴代下6:4-6

4 彼は言った、「イスラエルの神、主はほむべきかな。主は口をもってわが父ダビデに約束されたことを、その手をもってなし遂げられた。すなわち主は言われた、

5 『わが民をエジプトの地から導き出した日から、わたしはわが名を置くべき家を建てるために、イスラエルのもろもろの部族のうちから、どの町をも選んだことがなく、また他のだれをもわが民イスラエルの君として選んだことがない。

6 わが名を置くために、ただエルサレムだけを選び、またわが民イスラエルを治めさせるために、ただダビデだけを選んだ』。 

詩篇132:13-14

13 主はシオンを選び、それをご自分のすみかにしようと望んで言われた、

14 「これはとこしえにわが安息所である。わたしはこれを望んだゆえ、ここに住む。 

 しかし預言者エレミヤの時代には、主の御名をもって唱えられる家として主自身によって選ばれていたエルサレムの宮が、主なる神の目には「強盗の巣」として映っていた。

エレミヤ7:10-11;30

10 わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。

11 わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。

30 主は言われる、ユダの民はわたしの前に悪を行い、わたしの名をもってとなえられる家に、憎むべき者を置いてそこを汚した。

 主なる神は預言者エレミヤをはじめ、多くの神の僕たちを通して民を警告していたにも関わらず、民は頑なに罪の道を選んだがゆえ、前587-6年にエルサレムはバビロニア帝国によって侵略され、ソロモン王によって建てられた神の宮は破壊され、民は遠くバビロニアまで捕囚として連れていかれた。

 それでも神のご自身の民に対する憐みは深く、預言通り70年後、民はユダヤの土地に戻り、エルサレムの神の宮は再建された。

 そして時が満ち、御子が人となり、ダビデの子として律法の下に地上に遣わされた時、繰り返し民の悔い改めと求め、エルサレムに対してやがて降り注ぐ神の裁きを警告した。

ルカ13:34-35

34 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

35 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。

ルカ19:41-44

41 いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、

42 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。

43 いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、

44 おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。 

 興味深いことは、御子イエスの地上宣教において二度の「宮清め」を行った(参考記事)が、御子は神の宮がエレミヤの時代のように「商売の家」、さらに「強盗の巣」のようになっていると見做していたことである。

ヨハネ2:13-16

13 さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。

14 そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、

15 なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、

16 はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。 

マタイ21:12-13

12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。

13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。 

 当時、主イエスのこれらの言葉を聞いたユダヤ人たちは、預言者エレミヤの言葉と、その後エルサレムに降り注いだ激しい裁きを思い出し、主なる神の前に悔い改めるべきだった。しかし現実には、民はその御子を十字架に架けて殺してしまったのである。 

 そして「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。」「いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。」という主イエスの預言は、西暦70年にローマ軍に力によって成就した。

 こうして主なる神へ礼拝を捧げるために主自身によって選ばれていたエルサレムとその神殿は、御言葉通り破壊され、レビ人たちによる神殿での礼拝は不可能となったのである。

 何より、御子が死から復活したことにより、地上の神殿に仕えていたアロンの子孫の祭司とは異なる、天の霊的な「メルキセデクに等しい大祭司」としてたてられた。

へブル7:11-25

11 もし全うされることがレビ系の祭司制によって可能であったら――民は祭司制の下に律法を与えられたのであるが――なんの必要があって、なお、「アロンに等しい」と呼ばれない、別な「メルキゼデクに等しい」祭司が立てられるのであるか。

12 祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである。

13 さて、これらのことは、いまだかつて祭壇に奉仕したことのない、他の部族に関して言われているのである。

14 というのは、わたしたちの主がユダ族の中から出られたことは、明らかであるが、モーセは、この部族について、祭司に関することでは、ひとことも言っていない。

15 そしてこの事は、メルキゼデクと同様な、ほかの祭司が立てられたことによって、ますます明白になる。

16 彼は、肉につける戒めの律法によらないで、朽ちることのないいのちの力によって立てられたのである。

17 それについては、聖書に「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」とあかしされている。

18 このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、

19 (律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。

20 その上に、このことは誓いをもってなされた。人々は、誓いをしないで祭司とされるのであるが、

21 この人の場合は、次のような誓いをもってされたのである。すなわち、彼について、こう言われている、「主は誓われたが、心を変えることをされなかった。あなたこそは、永遠に祭司である」。

22 このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。

23 かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。

24 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。

25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。 

 「エルサレムでもない所で」。この簡潔な言葉の中には、ご自身の十字架の死と復活、地上における祭司制度とは異なる天の大祭司による礼拝、そして頑なな罪を原因とするエルサレムに対する神の裁き、そしてユダヤ人の離散などの非常に深い意味が含まれているのである。

 そして私は、御子がこのような深い啓示の言葉を、ユダヤ人が侮蔑し断交していたサマリア人の女性、しかも同じサマリアの民からさえも孤立していた一人の貧しい女性に話しかけていることに、とても心が動かされる。

 

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