an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

宮清め

 聖書を読むとイエス・キリストは地上における三年半の公の働きの間、所謂「宮清め」を二回行ったことがわかる。一度目は公の働きを始めた直後(ヨハネ2:13-17)、二度目は十字架の死を目前が迫った過越の祭りの前に行った(マタイ21:12-13、マルコ11:15、ルカ19:45-46)。

 

 一度目は、ユダヤ人以外の異邦人が真の神を礼拝するために備えられていた宮の外庭をいつの間にか占領していた両替人の金を散らし、その台を倒し、生贄として捧げるために売られていた牛や羊を追い出した。その時イエスは、「私の父の家を商売の家としてはならない。」と言って鳩を売っていた者を戒められた。

 しかしその二年後には、同じ場所が同じような商売する人々によってまた占領されていたのである。それを見てイエスは今度、動物ではなく商売人たちを追いだした。そして言った。「『私の家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

 異邦人が神への祈りを捧げるために備えられた特別の場所が、いつの間にか「商売の家」となっており、一度はイエスによって戒められたにもかかわらず、二年後には「強盗の巣」にまで成り下がってしまっていたのである。

 

 御利益宗教というのはいつの時代も存在した。しかしアメリカで生まれたプラグマティズムから派生した「繁栄の福音」は、多くの「福音の商売人」を生み出した。「証人」ではなく「商人」である。宗教心という衣を被った人間の貪欲を巧みに利用し、この「商売人たち」は福音の土台を持たない安易な約束を売り物に、自分たちの「ビジョン」の達成のためだけに邁進した。

「もっと大きく、もっと強く、もっと富を得、もっと有名になろう!神は今の千倍の祝福を与えようとしておられるのだ!」

 しかしそれらの「商売の家」はいつの間にか「強盗の巣」となってしまっていた。貪欲と肉欲に縛られ、霊的闇の中、信じられないような行為が繰り返されていた。その間、聖霊は何度彼らの良心に語られていただろうか。しかし彼らは同じところに戻って、さらに闇のわざを続けていった。どんなに多く人が縛り上げられ、すべてを奪われ、裸にされ、売り飛ばされてしまったことか。

 しかし今、多くの強盗の巣から強盗たちが追い出されている。イエス・キリストが彼らの「腰掛け」を倒されている。

 私たちはそれを喜ぶべきか。否、それだけではまた「商売人」や「強盗」は同じところに帰ってきて、また同じことをするだろう。彼らに占領されていた場所を本来の目的に戻そう。

『私の家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。