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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

什一献金について(10)「それもしなければならない」の解釈

マタイ23:23

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

ルカ11:42

しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない。 

 これらの聖句もまた、什一献金制度を擁護する目的でしばしば引用されるも聖句である。「それもしなければならない」という箇所の「それも」を強調し、「現代においても什一は有効であり、信徒は教会にささげなければならない」と主張する。

 しかしこの主張は文脈を完全に無視した解釈による、根拠のないものである。

 まず第一に、主イエスは誰にこの言葉を語りかけているのだろうか。聖句の中に明確に書かれているように、律法学者とパリサイ人たちである。彼らは他のすべてのユダヤ人同様、律法によって、収穫した農産物の十分の一をレビ人のために神殿の納めなければならなかった。だから主イエスは「それもしなければならない」と言って、義務として語ったのである。

 そして「それもしなければならない」の「それ」とは、文脈上「はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めること」を指していて、農産物の十分の一を納める律法のことである。

申命記14:22-27

22 あなたは毎年、畑に種をまいて獲るすべての産物の十分の一を必ず取り分けなければならない。

23 そしてあなたの神、主の前、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、穀物と、ぶどう酒と、油との十分の一と、牛、羊のういごを食べ、こうして常にあなたの神、主を恐れることを学ばなければならない。

24 ただし、その道があまりに遠く、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が、非常に遠く離れていて、あなたの神、主があなたを恵まれるとき、それを携えて行くことができないならば、

25 あなたはその物を金に換え、その金を包んで手に取り、あなたの神、主が選ばれる場所に行き、

26 その金をすべてあなたの好む物に換えなければならない。すなわち牛、羊、ぶどう酒、濃い酒など、すべてあなたの欲する物に換え、その所であなたの神、主の前でそれを食べ、家族と共に楽しまなければならない。

27 町の内におるレビびとを捨ててはならない。彼はあなたがたのうちに分がなく、嗣業を持たない者だからである。

 「あなたの神、主の前、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所」という詳細に注目してほしい。つまり主イエスが言及しているように、収穫の十分の一はエルサレムの宮に納めなければいけなかった。実際、マタイの聖句の前に神殿に関する言及があるように、当時はまだそれが破壊されておらず(西暦70年破壊)、神殿における儀式がレビ人らによって執り行われていたのである。

マタイ23:16-21

16 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。

17 愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。

18 また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。

19 盲目な人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。

20 祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。

21 神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。

  だからこそ主イエスは、「十分の一を主である私のところに持ってきなさい」とは言わず(血統的にレビ族に属していなかったので、そのようなことは主張できなかった)、「宮に納めなければならない」と言っていたのである。

 しかしその御子は十字架の死によって永遠の贖罪を成し遂げ、復活し、レビ族にはよらない、「メルキゼデクに等しい」全く新しい天の大祭司となられた。

へブル7:11-28

11 もし全うされることがレビ系の祭司制によって可能であったら――民は祭司制の下に律法を与えられたのであるが――なんの必要があって、なお、「アロンに等しい」と呼ばれない、別な「メルキゼデクに等しい」祭司が立てられるのであるか。

12 祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである

13 さて、これらのことは、いまだかつて祭壇に奉仕したことのない、他の部族に関して言われているのである。

14 というのは、わたしたちの主がユダ族の中から出られたことは、明らかであるが、モーセは、この部族について、祭司に関することでは、ひとことも言っていない。

15 そしてこの事は、メルキゼデクと同様な、ほかの祭司が立てられたことによって、ますます明白になる。

16 彼は、肉につける戒めの律法によらないで、朽ちることのないいのちの力によって立てられたのである。

17 それについては、聖書に「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」とあかしされている。

18 このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、

19 (律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。

20 その上に、このことは誓いをもってなされた。人々は、誓いをしないで祭司とされるのであるが、

21 この人の場合は、次のような誓いをもってされたのである。すなわち、彼について、こう言われている、「主は誓われたが、心を変えることをされなかった。あなたこそは、永遠に祭司である」。

22 このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。

23 かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。

24 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである

25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。

26 このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。

27 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。

28 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。

 そして神の恵みは、律法学者とパリサイ人たちなどユダヤ民族だけではなく、異邦人にも与えられた。その異邦人の信仰者に対して、初代教会は農産物の十分の一をエルサレムの神殿の納める戒めだけでなく、金銭の十分の一を納めることすら定めていない。

使徒15:23-29

23 この人たちに託された書面はこうである。「あなたがたの兄弟である使徒および長老たちから、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟がたに、あいさつを送る。

24 こちらから行ったある者たちが、わたしたちからの指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ、あなたがたの心を乱したと伝え聞いた。

25 そこで、わたしたちは人々を選んで、愛するバルナバおよびパウロと共に、あなたがたのもとに派遣することに、衆議一決した。

26 このふたりは、われらの主イエス・キリストの名のために、その命を投げ出した人々であるが、

27 彼らと共に、ユダとシラスとを派遣する次第である。この人たちは、あなたがたに、同じ趣旨のことを、口頭でも伝えるであろう。

28 すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。

29 それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。

 つまり主イエスが「それもしなければいけない」と言ったのは、モーセの律法によってエルサレムの神殿に収穫の十分の一を納める義務をもっていたユダヤ人に対しての言葉であり、その主イエス自身が律法によらない新しい大祭司となり、エルサレムの神殿もレビびとの祭司職も現在では存在せず、全世界の異邦人が信仰によって神の子となる恵みが与えられ、その異邦人信徒に対して什一を納める義務が課されなかった以上、「それもしなければならない」の一節を、什一献金制度を擁護する聖句とすることは間違っている。