an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられた

ガラテヤ6:14-16

14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。

16 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。 

この十字架につけられて、

この世はわたしに対して死に、

わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

 何と強烈な啓示であろうか。KJVなどはより明確で「the world is crucified unto me, and I unto the world.」とし、「この世が十字架に架けられた」「私も十字架に架けられた」というニュアンスをそのまま訳している。和訳では新改訳がおそらくより良い訳だと思う。

新改訳

この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

 つまりそれは「ただの死」ではなく、「キリストの十字架を通しての十字架の呪われた死」を指している。キリストの十字架の霊的体験をした信仰者にとって、この世はまるで「律法によって呪われた十字架の上にいる死刑囚」のようであり、また同時に、自分自身もこの世にとっては同じである、という意味である。

 十字架による磔刑そのものには、何も希望も光もない。むしろそれは「神との断絶」であり、「呪い」であり、「恥辱」であり、「絶望」である。

 しかしそこに「キリストの十字架」があるから、十字架は「勝利」となり、「解放」となり、「誇り」となるのである。

わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。

 「断じてあってはならない」という言葉のうちに、信仰者の心が如何に「この世の誇り」の誘惑にさらされているかを暗示しているのではないだろうか。