「涙をもって種を撒く」イエス・キリスト
西暦6年にユダヤ・サマリア・イドマヤの地方がローマ帝国の属州となってから、第一次ユダヤ戦争の結果、西暦70年にエルサレムが神殿と共に破壊され尽くすまでの期間は、ユダヤ人の民族意識にとっては異邦人による被支配という非常に屈辱的な時期であった。
そして西暦30年代前半のイエス・キリストの十字架の死を境に、確実に破壊と離散に方向に向かっていった。これは御子イエス・キリスト自身が、「神の訪れの時を認めなかった」民に対して、涙を流しながら繰り返し警告していたことであった。
マルコ13:1-2
1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。
2 イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
ルカ19:41-44
41 いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、
42 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。
43 いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、
44 おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。
政治的な緊張と宗教的対立に満ちた約40年間の崩壊への道程は、同時に十字架の福音宣教がユダヤ地方から地中海東部・中部まで大きく拡張した時期でもあった。
それは御子イエス自身が、イスラエルの復興(異邦人の支配から解放され、メシアによる王国を確立すること)の時期の問題に囚われていた弟子たちに聖霊の力を与え、ご自身の証人としてこの世に遣わし、教会に対する迫害を通して弟子たちを各地に導き出し、それまで福音を聞いたことがなかった人々に遣わし、また使徒パウロやテモテなど、福音の自由の啓示を深く理解していた宣教者をギリシャやローマなどに遣わしたからであった。
使徒1:3-8
3 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。
4 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。
5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。
6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。
7 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
世界中で緊張や不安が高まり、平和でごく普通の生活を求めている人々が全く望まぬ方向に世界が向かっている。しかしそれはまた、避けられない事態と聖書の中で預言されているものである。
「神の都」が踏みにじられ、破壊されるのを予見して涙を流された御子イエスは、弟子たちに聖霊を与え、地の果てまで救いの福音宣教のために遣わした方である。
これから起こるべきことを知り、そのことに「涙を流されている」主イエスは、終わりの時に生きる私たち信仰者に何を求めているのだろうか。地上における神の王国の実現を待つことだろうか。
やがて「シオンの繁栄」は成就するだろう。それはネゲブの川のように回復されるだろう。しかしそれを喜ぶには、「涙をもって種を撒く」「種を携え、涙を流して出て行く」ことが求められている。
詩篇126
1 都もうでの歌
主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。
2 その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と言った者が、もろもろの国民の中にあった。
3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。
4 主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。
5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。