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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「使われなかった香料」と「ナルドの香油」

ルカ24:1-3

1 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。

2 ところが、石が墓からころがしてあるので、

3 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。 

 イエス・キリストが十字架の上で壮絶な死を遂げ、彼の遺体がニコデモとアリマタヤのヨセフによって墓に納められた後、週の初めの日に女たちがイエスの遺体のために用意しておいた香料は、結局その目的を果たすことができず、役には立たなかった。イエス・キリストが復活していたからである。

 これらの香料(原語では複数形)が、どのくらいの量であったかは明記されていない。ニコデモが用意した香料が百斤(ローマの単位で100リブラ、約32.7キログラム)であったと書かれているので、おそらくそれ相当かそれ以上の量の香料を、女たちはイエスの遺体を最終的に葬るために用意したと想像できる。

ヨハネ19:39,40

39 また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。

40 彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。  

 自分達が敬愛していた偉大な教師が死んでしまったのである。大量の香料は、彼の死に対する可能な限りの敬意の顕れであった。しかしキリストの復活によって、その用意した香料は必要ないものとなった。

 キリストの死を「人間的・地上的な悲劇の死」として捉え、それに対して感動して涙したり、様々なかたちで敬意を表すことはできる。そのような感情、またそれを基にした行動は、人間的観点からすれば崇高なものかもしれない。しかし「キリストの死」はあくまで「キリストの復活」という啓示と合わせて捉えらなければ、そのような高貴な感情や思いさえ、女たちが用意していた大量の香料のように虚しいものである。

Ⅰコリント15:14

もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 

  そう、キリストの復活がなかったら、私達がたとえ福音宣教のために全生命を犠牲にしたとしても、高価な代価を払って信仰を守ったりしても、それはあくまで「肉の腐敗臭を一時的に誤魔化すだけ」の虚しいものであり、やがて「死」に全てのみ込まれてしまうものである。

 以上の啓示と、ベタニアのマリヤが高価なナルドの香油を注いだ行為をイエス・キリストが褒めたことと比較すると興味深い。

マルコ14:3-9

3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。

4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。

5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。

6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。

7 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。

8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。

9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。 

 なぜイエス・キリストは、ベタニヤのマリヤの行為を「全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」と褒め称えたのだろうか。それは勿論、百斤の香料よりもナルドの香油の方が価値が高かったからではない。それはごくシンプルな違いである。マリヤは的確な「時」、つまりイエス・キリストが十字架に架けられ死ぬ前、彼がまだ生きている時に、彼の「葬りの用意」をしたからである。

 この時点で、ベタニヤのマリヤがこの後に起こることをどれだけ理解していたかはわからないが、確かに生きているイエスに香油を注いだことによって、イエス自身はその行為を「聖書に預言されていた自身の死の葬りの用意」と捉えたのである。そしてイエスの遺体にではなく、生きているイエスに香油を注いだことで、「十字架の死の預言の成就」という、神の永遠のわざの中に「吸収」されたのである。

 同じように私達が「イエスの十字架の死」を語るとき、それを「二千年前に死んで葬られてしまった人物の悲劇の出来事」としてではなく、「復活して今も生きているイエス・キリスト」の御前で、「永遠に罪を清める力をもつ神のわざ」として、命の御霊によって語るからこそ、父なる神の目に映っているように、永遠の価値の中に見出されるのである。

Ⅰコリント2:2(文語訳)

イエス・キリスト及びその十字架に釘けられ給ひし事のほかは、汝らの中にありて何をも知るまじと心を定めたればなり。 

 

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