an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「イエス・キリストと十字架につけられたキリスト」

 Ⅰコリント1:2(口語訳)

なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。 

(新改訳)

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

 口語訳では、十字架につけられたキリストがイエス・キリストに対して「しかも」という特記する形で強調されている。新改訳では、「すなわち」とつなぎ、等価的説明をしている。 文語訳では、「イエス・キリスト及びその十字架に釘けられ給ひし事」とし、列記という形をとっている。原語においては、KAIだからどの訳も有効だと思う。

 しかし本当の問題は、クリスチャンの中でも多くの人が、この「イエス・キリストと十字架につけられたキリスト」という関係を、時間的概念によってのみ解釈してしまっていることだ。

 私は救われて間もない頃、ある兄弟に「あなたは罪の赦しを受けたのだから、十字架を背にして復活したイエスと共に前進しなさい」というアドバイスを受けた。当時は霊的経験も知識もなかったが、心の中で聖霊が「違う!」と叫ぶのを聞き、家に帰り聖書を開いて確信を持ったことを覚えている。

 「イエス・キリストと十字架につけられたキリスト」という関係を、時間的概念によって分離したり、段階的に解釈するだけであってはならない。十字架につけられたキリストのうちに復活の相があり、復活したキリストのうちに十字架の相があるのだ。私達の日々の命は、絶えずキリストの生と死、その両方の相によって同時に成り立っているのである。