ヨハネ12:31-33
31 今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。
32 そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。
33 イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。
三十二節の主語は、イエス・キリストである。キリストが、十字架の死を通して、自分のもとに引き寄せると宣言しているのである。そしてその対象は、「すべての人」である。
もし信仰者一人ひとりが、このキリストの計り知れない「引力」をさらに信仰をもって受け入れ、より頼むなら、おそらく人々な関心を引くための数々の「大道具」と「小細工」は、教会の活動から消えてなくなるだろう。なぜなら、このキリストの力は、一点に留まって近づいてくる人を引き寄せるような静的なものではなく、遠く低く離れてしまっている魂の所まで近づき、引き寄せる程、動的で力強く、実に本質的ものだからである。
「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」と宣言した方は、復活した後に、キリストの死に失望してエマオへの道を歩いていた弟子達に歩み寄った。
ルカ24:13-15
13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。
16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
なぜイエス・キリストは、死から復活した救い主として神々しく輝く姿で現れなかったのだろうか。なぜ沈み込んだ弟子達の心を奮い立たせるのに、スタジアムで大きな聖会を企画して人々を集めるのではなく、弟子達と共に歩きながら自分のアイデンティティーをスペクタクルな方法で誇示するわけでもなく、「モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされる」という「地味な」方法を選んだのだろうか。
ルカ24:27-35
27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、
34 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。
35 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。
このように外的なビジョンによって御自身のもとへ引き寄せるのではなく、御言葉を通して、彼らの心を開き、奮い立たせ、引き寄せたのである。
同様に、主イエスは復活の朝、空の墓の前で一人泣くマグダラのマリヤにご自身を啓示された。その啓示された姿は眩いばかりの光に包まれた栄光の姿ではなく、マリヤが園の番人だと勘違いするほど「地味で普通」であった。主イエスは、マリヤの名を呼ぶことによって、悲しみに沈んでいた彼女の心を引き寄せたのである。
ヨハネ20:11-16
11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
復活後、三度目に御自身を啓示したときは、弟子達がガリラヤ湖で漁をしているときであった。湖畔に立ったイエスには、復活の栄光を示すようなビジュアルはない。弟子達は、それがイエスであることは気付かなかった。彼らが気付いたのは、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」というイエスの言葉に従って網をおろし、大量に魚を獲ったときであった。そして復活の主は、弟子たちに炭火焼の焼き魚とパンの朝食を自ら用意して弟子達を迎えた。復活した救い主の啓示としては、奇妙な程「日常的」ではないだろうか。
ヨハネ21:1-13
1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。
主イエスが私達を引き寄せる力に対して、「この世」も「この世の君」も本来、何の力も持っていない。主イエスは注目を集めるようなやり方ではなく、静かに、しかし確実に、私達のごく日常的な次元まで降りて来てくださり、失望と虚無の深みに沈み込んでいる私達の心を、十字架の愛によって引き寄せてくださるのである。
Ⅱコリント12:9
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
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