ナザレの謎(5)ガムラ
ナザレの謎(2)ナザレ村出身? - an east window
ナザレの謎(3)ナザレ人とナジル人 - an east window
ナザレの謎(4)道、そして真理 - an east window
ルカ4:29
立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。
この聖句を小さな小石にたとえ、聖書という「水面」に投げ入れてみた。その波紋は不可避に大きく拡がっていく。様々な疑問や帰結が生じるのである。
- イエス・キリストが育ったと言い伝えられ、現在ナザレと呼ばれる所が緩やかな窪地の谷間にあり、人が転落する可能性があるような切り立った崖など存在しないならば(実際にナザレに旅行に行ったことのある読者は、その穏やかな丘陵の風景を思い出すのではないだろうか)、ルカによる福音書にでてくる町、しかもシナゴーグが在るほどの町は一体どこなのだろうか。
- そもそもなぜイエス・キリストが実際に育った歴史的意義のある町の記憶がきれいになくなり、当時知られていなかった土地に造られた町にとって代わってしまったのか。
- 使徒パウロに同行し、現在のナザレからそれ程離れていないカイザリヤの町に2年近く滞在したルカが、ナザレのことを知らなかったのだろうか。
- ガリラヤ地方出身の弟子達、特にマタイが、自分の主イエス・キリストの出身地の名を間違えることなどあろうか。
- そもそも今まで「ナザレ」と和訳されている「NAZORAIOS」とは、町の名を示していないのに、なぜ町の名と関連づけられなければいけなかったのか。
- その意図的とも思える選択をどう解釈すべきか。神の計画において正当化できる根拠はあるだろうか。
人間の知識には完全などありえず、それは絶えず部分的であり、知っていると思っていることにおいても、勘違いや思い込みであることも少なくない。過去には確信を持っていた事に対して、時間の経過と共に異なる意見をもつようになることなど誰でも経験することだろう。
しかしそのような変化は、もし「揺るがないものを追求する」という目的があるならば、決してネガティブなことではないだろう。否、揺るがない確かなものが残るためには、揺らいでしまう不確定なものがそのような存在であることを認識されなければならない。
へブル12:26-28
26 あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
27 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。
28 このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。
神の祝福は、イエス・キリストに対する信仰によって与えられる。そしてその信仰はイエス・キリストの言葉による(ローマ10:17)。彼自身が「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた時、その「道」は私たちの目の前に揺れ動くような「蜃気楼の道」を指していたわけではない。その「道」を迫害するために回心前のタルソのサウロは全力を尽くし、回心した後はその「道」を全生命を賭けて生き、迫害者から迫害される者となったとしても、異端者として訴えられ呪われたとしてもその「道」のために証し続けたのである。
一番目の疑問について考察してみたい。「ルカによる福音書にでてくる丘の上に建てられて、シナゴーグが存在するほど共同体としての規模を持ち、そのシナゴーグの近くに切り立つ崖がある町は一体どこなのだろうか。
ガムラもしくはガマラという町がガリラヤ湖の直ぐ近くにある、否、正確には「あった」のである。Gamla - Wikipedia, the free encyclopedia
Israel Antiquities Authority(イスラエル考古学庁のサイト)
http://www.antiquities.org.il/survey/new/default_en.aspx
(奥に見えるのはガリラヤ湖北部)
シナゴーグの遺跡
このガムラを扱った記事は英語などでは無数にあるが、日本語では唯一このサイト
45.熱心党との違い・イエスはガリラヤでどのように受入れられた?のみのようである。
ガムラ(ヘブライ語 גמלא)は、西暦67年の第一次ユダヤ戦争でローマ軍によって完全に破壊されるまで、ゴラン高原の主要都市であった。ガムラという名は、ヘブライ語で「ラクダ」という意味を持つが、添付した写真で解る通り、ラクダのこぶのような形をした山稜部に建てられていたからである。
ガムラの町は、ハスモン王朝のアレクサンドロス・ヤンナイスによって紀元前81年に建立された。「ガムラのヒゼキヤ」とその息子ユダ(「ガリラヤのユダ」使徒行伝5:37参照)はこの町出身であるが、自らハスモン王家の子孫だと主張し、ローマ帝国の覇権に対する反逆を指揮した。この「ガリラヤのユダ」が、熱心党を創立し、ガムラはその熱心党の拠点であった。
西暦66年に後の『ユダヤ戦記』の著者となる指揮官フラウィウス・ヨセフスによって要塞化されたが、一年後ローマ軍によって破壊された。ローマ軍が要塞を破り侵入に成功したとき、町に立て籠っていた人々の一部は、敵の手に落ちるよりも自殺の道を選び、町の北西側にある崖から身を投げたという記録が残っている。
ガムラの崖
このガムラはその地理的位置を見れば確認できるように、経済活動上(ガムラはオリーブオイルの生産地であった)や流通の面でガリラヤ沿岸にあったベツサイダの町(十二使徒のうちでアンデレとペテロ、そしてピリポの出身地)と深いつながりをもっていた。
(6)へ続く