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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

天井の穴

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マルコ2:1-5

1 幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、 

2 多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。 

3 すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。 

4 ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。 

5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。 

 イエスと溢れんばかりの人々がいた家は、まさに「奇蹟の家」と呼ぶにふさわしい家であった。聖書の記述から、カぺルナウムにあったその家は、イエスの弟子であるペテロとアンデレの家であったことがわかる。そこでは、数日前にぺテロの姑がイエスによって病気から癒やされただけでなく、その後も多くの病人が癒やされ、多くの悪霊に憑かれた人が解放されていた(マルコ1:34)。

 イエスの姿を一目見るため、またその教えを聞くため、群衆が押し寄せ、家は身動き取れない程一杯であった。人が集まるために建てられた施設ではなく、あくまでペテロの個人宅である。しかし「家庭集会」という品のいい呼び方を使うには、あまりに人が集まっていた!おそらくどんな教会や家庭集会でも夢見る祝福ではないだろうか。そして何より、溢れんばかりの群衆はイエス・キリストの教えを熱心に聞いていたのである。「イエスは御言を彼らに語っておられた」。何と祝福された空間だろう。

 しかし祝福された空間のバランスを崩す要素が、突然思いがけない所から、信じられない方法で介入してきた。自分の家の天井に、ドア一枚ほどの穴を開けられて平静にしていられる人、特に女性はまずこの世に存在しないだろう。冒頭の二枚の写真は、家の天井が真夜中に落ちたことをある女性がブログに載せたものを借用したものだが、天井に穴が開いていないのにこれだけの惨状である。穴が開けられ、担架で人が吊り降ろされてきた状態を想像してみてほしい。南イタリアのマンマ(母)だったら、バラバラと落ちてくる天井のかけらを見て、気絶していただろう(イタリア、特に南イタリアでは、客間はマンマの「聖所」であり、「アンタッチャブル」な食器類やオブジェが納められている「神聖な」棚が必ずある。天井の破片どころか、埃や指紋の存在さえ許されない場合が多い)。

 しかし、聖書にはペテロの姑やペテロ自身が不平を言ったような気配は記述されていない。勿論彼らは、みるみる拡がっていく天井の穴を見て、開いた口がふさがらなかっただろう。だが、彼らはイエスがなさるままにした。そして偉大な神の栄光をみることになったのである。

 私達は「順序良く進行する礼拝」に毎週参加し、「それなりの霊性」と「そこそこの祝福」で「小奇麗にまとまった」信仰生活に満足しきっていないだろうか。「とりあえず御言葉聞けて」「それなりにイエス様の臨在感じれる」からそれで十分、だと。

 しかし「私達の祝福された生活領域」の壁の外に、罪の奴隷として身動き取れなくなっている人、イエスの赦しを必要としている人が沢山いる。主なる神は、そのような人々を思いがけない時に信じられない方法で私達の領域へ導き入れる。

 しかし多くの場合、私達は「天井のかけらが自分の頭の上に降ってくる」のをみて、すぐ神の働きに対して心を閉ざしてしまうのだ。