an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

無邪気ではいられない(2)

使徒1:6-8

6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。 

7 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。 

8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。 

 聖書に預言されているように、確かにイスラエルは、キリストの千年王国としてこの地上で完全に復興されるだろう(黙示録20章)。それは人間の思惑を超えた神の計画によるものである。現在キリストを否定しているが、その実現を切望しているユダヤ教徒がいることは十分理解できる。しかし、ユダヤ人の初穂として救われた弟子達が、イスラエルの復興について質問した時、復活したイエス・キリストは彼らの関心を正した。神の恵みを受けたキリストに属する者として、「イスラエルの復興」よりも優先的にすべき重大な任務があったのである。それは、キリストの証人として全世界に救いの福音を伝えることであった。しかも、その宣教の対象はユダヤ人だけではなく、全世界に住む「すべての造られたもの」であった。

マルコ16:15

そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。

 そこには、文化的・人種的・宗教的・環境的制限など含まれていない。「すべての造られたもの」である。

 クリスチャンが「国家としてのイスラエルの祝福」のために祈るとき、「イスラエルの復興」を強引かつ暴力的に推し進めている側の肩を持っていることを自覚する必要があるだろう。無邪気で善良な祈りなのかもしれない。しかし被圧制者が置かれている状況が部分的にしろ十分過ぎる程公表されている現在、「無邪気」でいることは罪である。何より、神の愛の福音宣教を最優先の任務として定めた、主イエスの御旨をないがしろにする行為である。

 ローマ帝国の主権から解放し、イスラエルの復興を実現してくれるメシヤを待ち望んでいた権力者や民衆の期待を「裏切り」、社会的弱者と食を共にし、全ての罪びとの救いのために十字架の上で命を捧げてくださった方が、この恵みの時代に信仰者に何を求めているか、再検討すべきではないだろうか。 

 

)に続く