an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

現代福音宣教の問題点(2)超教派集会の弊害

 たださえ日本のクリスチャン人口は非常に少ない上、様々な教派の違いが伝道の妨げになっているという理由で、以前から超教派の集会が開かれている。日本の現況はよく知らないが、伝わってくる情報から推測すると、以前のような勢いはないと思われる。しかし、これらの超教派がまいた種は、どのような形にしろ避けがたく実を結んでいる。撒かれた種は成長し、その根は私たちが想像し得る以上に深く、また広く蔓延ってしまっている。

 それでは、この超教派運動や集会の何が問題なのだろうか。この世の諺では、『団結は力なり』というが、「教派を超えて力を合わせれば、より効果的に福音を伝えることができるのではないか」という一見もっともらしい意見がある。しかし、第一の問題はまさにこの点、つまり超教派運動の「源泉」にある。福音の力とはどこにあるのか。クリスチャン同志の団結によるものであろうか。それとも、福音自体に限りない神の力が宿っているのだろうか。使徒パウロは言った。

 ローマ1:16

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。 

 団結して力を合わせること自体が間違っているのではなく、真の力の欠乏を団結の力で補えると考えることが、そもそも聖書が言う「肉」の領域に属するのであり、神を喜ばすことができないものなのだ(ローマ8:8)。ピリポの伝道の記述を読んでみれば、キリストを宣べ伝えていた彼の宣教がいかに力に満ちていたかが読み取れる。サマリヤの群衆に対して、また一人のエチオピア人の宦官に対して、また地中海沿岸の町々をピリポはたった一人で伝道した。聖霊が彼を満たし、彼をそのように導いていたからである。

 パウロとペテロは、同じキリストによって救われ、同じ言葉を話、同じ霊によって、同じ福音を宣べ伝えていたが、共に同じ「畑」で働くことはなかった。それぞれが福音の力を武器に、神から与えられたそれぞれの務めを神の前で果たしていたからである(ガラテヤ2:7,8)。

 「力の源泉」だけの問題ではない。その団結の「質」の問題も大きい。ある教派は、異言を伴う聖霊のバプテスマが、聖書の教えだと信じている。他のある教派は、それは使徒の時代で終わってしまったので、現在見られる現象は神から来るものではない、と教えている。このような根本的な違いを乗り越えて「団結」するにはどうすればよいか。単純に「見て見ないフリ」をすればいい、と決めたのである。当然、全ての教派を満足させるには、「見ないフリ」する点が沢山出てくるわけだ。結果として、教派同志が話し合って取り決めた「必要最低限」の事項で宣教することになる。『救いへの三段階』(または四段階)や『罪びとの祈り』のような、簡略化もしくは定義化された宣教が行われるのはそのためである。しかし、御霊は説教者を用いて、「神の言葉を余すところなく伝え」(コロサイ1:25 to fulfil the word of God KJV)ようと願っておられる。

 当然の帰結として、こうした簡略化し定義化した宣教は、自由な御霊による導き、啓示、説き伏せ、説得、呵責などの欠乏をまねき、無意識にせよ、意識的にせよ、それを補うために人間の意志による選択により頼むようになる。説教の後に「招き」を繰り返し行い、手を挙げさせたり、その場に立たせたり、説教台の近くに来るように招いたりして、聴衆の「応答」を執拗に刺激するのはそのためである。「招き」の全てを否定するわけではないが、多くの場合、非常に感情的な方法でその場の雰囲気を造りだし、「決意」させるように導く。私はこのような方法は、一人の魂に対して不誠実ではないかと思っている。感情だけではなく、知性など人のすべてを含めて神は罪びとを救いたいと願っているからだ。

 このような集会で使われる『罪びとの祈り』は、以下の通りである。「神さま。私は自分が罪人であることを知っています。私は、罪の結果を受けるべき者です。しかし、私はイエス·キリストを私の救い主として信じます。私は、イエスさまが死んでよみがえられたおかげで、私に赦しが与えられた事を信じます。イエスさまに信頼します。イエスさまだけがわたしの主であり救い主です。主よ、私の救いと赦しを感謝します。アーメン。」

 しかし、多くに未信者は、聖霊による呵責がないまま、つまり何が罪であるか実感の無いまま、この祈りを言われた様に繰り返し、「アーメン」と締めくくるはいいが、何から救われたのか、なぜ救われなければいけないのか、誰によって救われたのか、全く理解しないうちに、「今日救いを決意した頭数のひとつ」として扱われてしまうのである。「何を」信じたかわからないまま、なんとなく「信じた」という行程を一通り行い、「信じた」という行為または心の状態で、周りから「おめでとう」と祝福を受けてしまうのである。そして、どこか一つの教会に通い始めたとしても、その教会で教えていることも雰囲気も、「救われた」超教派集会とは異なるので、不信感を抱きつつ教会に通わなくなってしまうのである。「信じた対象」が不明確だから、「信じた」時の心の状態を失ってしまうと、全く確信を失ってしまうのだ。

 私はこのような状況においても神の主権が絶えずあって、一人ひとりの魂を救いに導いてくださることを信じる。そしてこの神の主権があるからこそ、人間的な要素に惑わされないで、御心を行いたいと心から願っている。神は、福音を伝える任務を自分だけでやろうとせず(完璧にできるはずである!)、万軍の天使達にも授けず、無限の憐みによって、私達罪びとに委ねて下さったからである。

(3)へ続くhttp://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/07/03/134159