an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

福音宣教のために授けられた賜物

マタイ28:18-20

18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。

19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、

20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

ルカ24:45-49

45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて

46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。

47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

48 あなたがたは、これらの事の証人である。

49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。 

使徒1:3-5;8

3 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。

4 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。

5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。 

8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。 

  十字架の死から復活し、弟子たちの前に再び顕れた主イエス・キリストは、全宇宙のあらゆる権威を授けられ、死と復活を通る前の肉体では不可能であった全臨性によって、いつでもどこでも弟子たちを導くことを約束された。

 しかしその絶対的権威と全臨性による導きの約束は、弟子たちが週に一度集まる場所で滞りなく礼拝を行うためではなかった。むしろそれは、全世界に対して弟子たちを福音宣教に遣わすためであった。

あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。

その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。

  これは絶対的権威をもつ方による、全ての信仰者に対する「命令」である。ある一部の「特殊な賜物をもつ、選ばれた者」に対する「召命」ではない。老若男女、社会的境遇に関係なく、すべての信仰者が「キリストの証人」として、救いを受けると同時に福音を宣べ伝える使命を受けているのである。

 その宣教命令にあたって、主イエスは弟子たちに何を授けただろうか。「福音伝道のマニュアル」をまとめて、弟子たちにマニュアル通り行うように命じただろうか。宣教組織をオーガナイズするように命じただろうか。神学校を設立し、『宣教論』について学ぶように命じただろうか。

見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい。

あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう。

聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。

 聖霊のバプテスマによって、人間的・地上的な力によらず、「上から授けられる力」によってキリストを証し、その名による罪の赦しを得させる悔い改めが宣べ伝えられる。

 それは、牧師や伝道師などの少数の「献身者」に託されたものではない。一人一人の信仰者が、神に生かされている環境において、祈り、果たしていく全ての信仰者としての務めである。

 聖霊の力と知恵と導きによって、家庭や近所、職場、学校は「宣教地」となり、あらゆる状況が有言無言の証しの機会となる。信仰者のすべてが、主イエス・キリストの証しとなるのである。だから、主イエスは「あなたがたは力を受けて、私のことを証しするだろう」とは言わず、「あなたがたは力を受けて、私の証人となるだろう」と言われたのである。

 休憩時間の何気ない会話や、昼食前の小さな感謝の祈り。お金では決して払われない家事を賛美の中に行うこと。買い物や病院の待合室で「偶然に」出会う人々との世間話の中で、「塩の効いた」一言。それは講壇でマイク片手に準備された説教を読み上げるようなタイプの務めとは全く異なるだろうが、聖霊の力と導きに寄り頼むなら、紛れもない神の働きである。

 私が敬愛するナポリ出身の姉妹は、救われる前に鬱病による重度の被害妄想に苦しんでいたが(私は彼女にとって「夫と自分に干渉する、一番憎らしい敵」であったと、何年か後に大笑いしながら告白された)、罪の告白し救われてからは完全に癒され、スーパーのレジで働きながら、知り合った地元の客に一言一言と証しし、今までに多くの魂を救いに導いている、素晴らしい証人である。彼女は「主よ、御心ならば、今日、貴方の事を知らない魂を私のところに導いてください」と必ず祈ってから、毎日仕事に行くと証ししていた。

  彼女の口からは、まるで自分が特別な召命を受けたかのような自己顕示の言葉を聞いたことがない。ただ、自分に与えられた務め(それは霊的なものだけでなく、家庭的・社会的な務めでもある)を、責任をもって忠実に行っている多くの信仰者と同じく、紛れもない「キリストの証人」なのである。