an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

現代福音宣教の問題点(3)引き寄せる力

ヨハネ12:32

そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう。

 今から十年以上前、日本に一時帰国したときのことである。ある人に誘われ、御茶ノ水で開かれたある集会に参加したことがあった。礼拝後、その集会の牧師が私のところに近づいてきて、いきなり私の職業を聞いてきた。自己紹介を兼ねて彼の質問に答えたら、彼は何も言わずにその場から立ち去ってしまった。非常に驚いたが、その対応を理解できないでいた。しかし後でその集会の主旨を聞き、納得したのであった。その集会は、信仰者でなおかつ社会の「VIP」を主な対象として執り行われていたのである。要するに私はその主旨の基準からすると、「VIP」として扱う必要のない人間として篩い分けられてしまっただけの話である。その牧師のスタンスを理解したとき、非常に驚くと同時に憤りを感じたことを今でもよく覚えている。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」(ルカ6:20)といわれた主の御言葉は、どこへ行ったのだろうか。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)という呼びかけは、社会的「VIP」に対してだけ与えられているのだろうか。イエスは、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と言って、罪びとや取税人、病人、売春婦など、社会的に蔑まれた人々のうちで神の救いを求めていた魂と共にいたのではないか。

 冒頭の聖句は、キリストが「すべての人」を「ご自身のところへ」引き寄せると約束している。しかも、その引き寄せる力は、「十字架に架けられたキリスト」であることが啓示されている。先日の記事で「福音は神の力である」という聖句を引用したが、この神の力は、人の心を罪から解放し、新しく造りかえる力だけについて言及しているのではなく、遠くにいる一つ一つの魂をキリストが十字架によってご自身のところへ引き寄せる力のことも含んでいるのある。

 プラグマティズムや繁栄の神学に影響された教会で、福音宣教にマーケティングのメソッドを取り入れているところが多いと聞く。つまり、自分達の教会に来てほしい人々、仕事と家庭をもち、献金できる中産階級にターゲットを絞り、集会をする場所を選び、人々が喜ぶイベントを行い、人々の喜ぶようなテーマを選んでメッセージするのである。勿論、「正統的キリスト教教会」という建前を取ったら人々は怪しがり、近づかないので、一通りの「正統的教義」については語るが、それはもう神の福音とは全く異なるものである。

 十字架に架けられたキリストの「引き寄せる力」は、神の力であり、人間の小賢しい「手助け」など必要としない。また、誰も、どんなに「立派な」牧師や宣教師であっても、この「全ての人を引き寄せる力」を、自分の判断基準で限定したり、コントロールすることなど許されていないのである。