an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

現代福音宣教の問題点(1)

 子供が瞳をきらきらさせながら、誕生日のプレゼントの箱を開けているのを想像してみて欲しい。期待していたもの以上にすごいプレゼントだったのか、頬を赤らめて喜んでいる。そして両親に向かって言った。「お父さん、お母さん。プレゼントありがとう。今日、僕はこのプレゼントを受け取ることを決心して本当によかったと思うよ。」

 一人の受刑囚が恩赦を受け、釈放された。彼は、刑務所の出口に迎えに来た仲間に言った。「今日、俺、ムショから出ることを決心したんだぜ。」

 この二つのケースとも、有り得ないほどズレている。しかし、多くのクリスチャンの救いの証しに同じようなズレがあるのは、なぜだろうか。なぜ、「プレゼント」をくれた父なる神とその「プレゼント」の素晴らしさよりも、「ある日、キリストを自分の救い主とすることを決心しました」という自分の選択を強調するのだろうか。なぜ恩赦を施してくれた神の憐みよりも、開けられた「牢獄の扉」から出る自分の選択について語るのだろうか。

 このズレは、罪びとの決心に重きを置いた福音宣教が生み出したものである。このような現代の福音宣教の問題点に関して、何回かに分けて記事にしてみたい。

(2)へ続くhttp://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/07/02/233953