an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

救いの必要

 取税人ザアカイがイエス・キリストから救いを受ける有名なエピソードにおいて、日本語訳の聖書は、残念ながらある大事なニュアンスを伝えきれていない。ルカ19:5をまず口語訳で読んでみよう。

イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。

 この下線を引いた個所は、キリストが自主的に決定した意味合いは伝えているが、原語は「デイ」δειという動詞を使っており、その意味は「~しなければならない」というもので、「必要」を表しているのである。残念なことに、新改訳も「泊まることにしてあるから」と訳し、下手すると「おとなしい感じだけど自分の欲しいもの絶対手に入れるタイプ」という歪んだイエスの印象を伝えかねない訳になってしまっている。新共同訳に至っては、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」という、ストレートだけど一つの「願望」になってしまっている。その点、文語訳「今日われ汝の家に宿るべし」は、原語のニュアンスを忠実に伝えている。(ちなみに私はよく日本語やイタリア語、英語などの現代語による色々な聖書訳を比較したりするが、文語訳は読み辛いという難点はあるものの、原語のニュアンスをよりストレートに伝えている個所を多くもった、非常に優れたバージョンだと思う。)

 些細な違いに思えるかもしれないが、実は神学的にも非常に重要な要素を含んでいる。イエスはここで、自分の「予定」や「願望」を表しているのではなく、「必要」を伝えているのである。「必要」といっても、イエスは泊まるところがなかったので、金持ちのザアカイにその必要性を訴えていたのでは勿論ない。イエス自身の必要ではなく、ザアカイの「救いのための必要」である。

 ザアカイは、民衆に忌み嫌われる取税人という仕事をしながら、多くの富を得ていたが、おそらく自分の魂の問題について日頃から考えてはじめていたのだろう。もしかしたら、同じ取税人だった使徒マタイが、全てを捨ててイエスに従っていたのを噂で聞いていたのかもしれない。だからこそ、イエスが自分の町エリコに来たと聞いて、何とか見たいと思い、イチジク桑の木の上に登ったのだろう(四節)。

 ただイエスは、それだけでは十分でないことを知っておられた。ザアカイは心の中に「イエスのことを知りたい」という願いを持っていた。ただ、それだけでは十分ではなかった。その願いによって実際に行動を起こし、イチジク桑の葉の間からイエスをみようとした。しかし、イエスを遠巻きに見るだけでは十分ではなかった。イエスがザアカイの家に泊まる「必要」があったのだ。つまり、イエスがザアカイの人生のなかに入っていく「必要」があったのだ。イエスはその必要を知っていたからこそ、「私はあなたの家に泊まらなければならない」と言ったのである。イエスによる「押し付け」でも「強要」でもなかった。一つの客観的かつ絶対的な「必要」である。

 その必要を理解し、自らそれに応えようと選択したからこそ、ザアカイは「急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた」(6節)のである。

 

 霊的なこと、自分の魂のこと、死後の世界などについて知りたいと願うことは、大切なことである。伝道の書に、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(3:11)とあるように、神は私たちの人生に様々な出来事が起こることを許され、それによって人は永遠の思い、つまりこの限られた、目に見える世界だけではなく、目には見えず手で触ることもできない神に対しての思いを呼び起こしてくださる。ある人はその思いによって聖書を読み始めるかもしれない。またある人は教会に通い始めるかもしれない。それらの行動もまた大切である。ただ、それ以上に、すべての人には一つの絶対的「必要」がある。それは、「イエス・キリストを自分の人生の中に受け入れる必要」であり、「イエスによる救いを受ける必要」であり、「イエスの十字架によって全ての罪を赦される必要」であり、「新しく生まれる必要」である。

 

「あなたがたは新しく生れなければならない」(ヨハネ3:7)。

 

 イエス・キリストが取税人ザアカイの心に働きかけ、彼の魂に救いをもたらした様に、読者一人ひとりの方の心にも働きかけてくださるであろう。その「必要」を誰より知っておられるから。

 

ピリピ3:13

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。