an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

穴の中の獅子

 ダニエル書六章に書かれている「獅子の穴の中のダニエル」は非常に有名で、子供のための絵本にも必ず出てくるエピソードである。ダリヨス王以外には如何なる神にも人間にも祈願することを禁ずる法令に背き、生ける神の前で日に三度、ひざまずいて祈ったダニエルは、獅子の穴に投げ込まれた。しかし獅子は何の危害もダニエルに加えず、彼は一夜明けてから無事助け出された。ダニエルを訴えた者たちは、逆に彼らの妻子と共に同じ獅子の穴に投げ込まれ、彼らが穴の底に落ちないうちに、獅子は彼らをかみ砕いてしまった。たとい迫害や困難にあっても、生ける神だけを求め続けること、またその忠実さに対して必ず神は答えてくださることの一つの例として、よく引き合いに出されるエピソードである。

 しかし今回は少し観点を変えて考えてみたい。ダニエルと共に穴の中に閉じ込められていた獅子、つまりライオンについて考察してみよう。ライオンは、その強さと勇壮な姿ゆえ「百獣の王」と呼ばれているが、その孤高なイメージとは裏腹に、実は非常に社会性のある動物で、大概組織的な群れを成して行動する。そのようなライオンだが、新アッシリア帝国の時代には、すでに人間によって飼育されていた記録が残っている。聖書に書かれているダニエルのエピソードによって、メディア・ぺルシャ帝国の時代においても同じようなことが行われていたことが理解できる。

 本来「百獣の王」として、大自然の中で群れを統率しながら生活しているべきライオンが、人間の気ままな欲望によって狭い穴の中に閉じ込められていた。しかも、ダニエルを貪り食わせるために、おそらくこのライオンにはしばらく餌が与えれれていなかったと思われる。狭い穴の中で空腹に喘ぐライオン。しかもこの動物は夜行性なので、夜に獲物を捕える習性を持っている。ダニエルが獅子の穴に投げ込まれたのは、日が暮れた後で、次の日の夜明け頃、ダリヨス王は獅子の穴のところに行っている(6:14,19)。

 しかし、この穴の中のライオンは、まるで「子羊のように」おとなしく、ダニエルには何の危害も加えていなかった。

ダニエル6: 22,23

わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです」。そこで王は大いに喜び、ダニエルを穴の中から出せと命じたので、ダニエルは穴の中から出されたが、その身になんの害をも受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからである。 

 この穴の中の獅子は、人となってこの地上に来られた神の子キリストの型と言える。キリストは、王の王であったが、遜り肉体を持って、この「狭く暗い」世界に来てくださった。神の子であったにもかかわらず、罪びとの全ての苦しみを味わった。しかも、彼が地上に来られたのは、罪びとを裁くためではなく、救うためであった。もし神が望んでいたなら、キリストは罪びとをその罪ゆえに「噛み砕く」こともできたであろう。しかし、キリストは罪びとをその信仰によって救うために来たのである。

ヨハネ3:16,17

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

 ダニエルが獅子から何の危害も受けなかった理由が、とても意味深い。「これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです」「これは彼が自分の神を頼みとしていたからである」。見事に新約聖書が語る「信仰による義認」を表しているではないか。ダニエルが救われたのは、神を完全に信頼していたからであり、同様にもし私たち罪びとが、キリストによる救いに全信頼を寄せるのなら、私たちはその信仰によって永遠の裁きから救われるのである。

 旧約聖書の黙示書であるダニエル書と同様に、終わりの時の啓示が書かれている新約の黙示録が、キリストを何回も「子羊」と呼ぶとともに、新約聖書の中では唯一「ユダ族の獅子」(5:5)というメシアの称号を使っているのは、決して偶然ではないだろう。